新八の息が上がる。 自分でも驚くばかりだが、相当に体は疲れていたらしい。 しかし、隙を見せたら一巻の終りだ。 新八は深呼吸をして、敵と対峙した。 男の真価はここからだろう、と笑って。 席に戻ろうとした谷を、廊下で斎藤が呼び止めた。 はっと、あからさまな狼狽を見せて、谷が振り返る。 「…さ、斎藤さんか」 暗い廊下で、部屋から漏れる灯が斎藤の顔を横切っていた。 細いが鋭い目が、谷を射貫くように見つめている。 「何か、起こったんじゃないのか?」 ちらっと、斎藤の視線が外を見る。 谷の背中に冷たい汗が流れた。 「あ、ああ、ちょっといざこざが起きたらしくて…」 「なら、伊東殿に声をかけて…」 「い、いや!私が行くから大丈夫ですよ。伊東先生や皆さんは、どうぞゆっくり飲んでいて下さい」 慌ててきびすを返し、廊下を走ろうとする谷の腕を、咄嗟に斎藤が握った。 ギョッとした谷の顏が、斎藤の涼しい顏の目の前に迫る。 「お供しましょう」 斎藤はそう呟くとにっこりと微笑み、谷を抑えたまま部屋の中に声をかけた。 「すみませんが、所用が出来ました故、我らは先に失礼します」 そう、左之に僅かに視線を走らせながら。 山崎が持ち帰った報告に、土方が殺気立った。 「谷は、どうしたんだ!?」 「隊士の後は吉村が追いました。私は暫く谷先生を待ちましたが…姿は見えませんでしたので、先にこちらへ」 「増援を…」 出すと言いかけて、土方は舌打をした。 今日は腕利きを伊東にかなり持っていかれていることに、今更気が付いたのだ。 もし谷が素直に伊東に報告したとして、奴は真っ正直に新八を助けるだろうか? 助けるかも知れない。 しかし、その結果として奴は何かを得ようとする。 「伊東に借りを作るわけにはいかん」 「吉村が走っております。奴は役に立ちます」 山崎の判断は正しいだろう。確かに吉村は腕が相当に立つ。きっと一人で何人分もの働きをして、新八の窮地を救うかも知れない。しかし、間に合うか、一人で足りるか、だ。 ギリ…と唇を噛んだ土方の耳に、予想外の声がした。 「私が行きますよ、土方さん」 「総司!?」 「私が行かなきゃ、誰が行くっていうんですか」 驚いた土方の視界に、既に装束を整えた総司が立っていた。 土方は咄嗟に叫ぶ。 「駄目だ!お前はそんな体じゃ…っ」 「私は、沖田総司なんですよ、土方さん」 土方の叫びを、総司は毅然として遮った。 その目に灯る炎に、土方は燃え尽きかける命の最後の叫びを見た気がした。 夜道を走る。 冷たい風が頬を撫でる。 谷と、斎藤と、左之と。 席を立った3人を、伊東は笑顔で送りだした。 もともと居心地が悪そうにしていた左之は、斎藤の視線にすぐ腰を浮かせたが、篠原はちょっと怪訝そうな顔をしていた。 しかし伊東は、止めなかった。 谷にはそれが、気になった。 何事かと聞かないのですか、伊東先生。 止めてはくれないのですか、伊東先生。 流れる風以上に冷たい汗をかきながら、谷は走っていた。 が、突然斎藤が歩みを止める。 「っ何だ斎藤!?」 先頭を走っていた左之が、興奮気味に振り返る。 彼は、谷の口から「巡察中の永倉さんが…」と聞いた段階で、早くも走り出していたのだ。 気持ちは既に、新八の元へと飛んでいた。が、現実の体がまだ追いつかない事に、苛立っている。 「悪い。ちょっと吐きたくなった」 「あ、ああ、酒が入っていましたからな…」 谷がどぎまぎと、斎藤と左之の間に立った。 「すまないが、先に行ってくれ」 「仕方ねぇな!!」 斎藤の言葉に答えるより早く、左之は駆け出していた。 心の中はすでに、新八の事で一杯になっている。その他に割く余裕は無かった。 谷がその左之を追おうか、残ろうかと迷う。 その腕を再び掴み、斎藤は呟いた。 「少し…付きあいませんかね」と。 クラクラした。 何人かの隊士が倒れているのが見える。 何人残ってる? 相手は何人立っている? 「…くそっ」 小さく唸ると、また右側から男が斬りかかってきた。 それを鍔元ではじき返し、腹を横に叩き割ると、男が仰向けに倒れた。…と、同時に、新八の膝もがくっと地に着いていた。 耳に、男達の笑い声が響いた気がする。 新八は刀を支えに立ち上がろうとした。 「まだ…だ!!」 こんなところでは死ねない。 こんな状態で死ぬことは出来ない。 「死ねないんだよ…あいつの、許可なしには…なっ」 新八の口が、ニッと歪むのを見て男達が刀を振りかざしたのは、その時だった。 「最初…」 ボソリと斎藤が呟く。 吐くのかと思った彼は、左之を見送るとゆっくりと歩き出したのである。 「永倉を手土産にするのかと、思っていたが…」 谷の胸に、ドキリと重たく鋭い杭が打ち込まれる。 「は、は?」 視線が定まらない谷を眺めて、斎藤は音もなく彼と向かい合わせに立った。 そして、耳元で囁くように、身を寄せる。 「病の沖田に続き、永倉を失わせる事で…副長の両翼をもごうとしたのかな?」 耳の産毛が総毛立つ気分で、谷は身震いをした。 ガクガクと、両膝頭が震えだす。 その揺れを袴越しに見下ろしながら、斎藤は鼻で笑った。 「気に、くわんな」 「な、な、なに、何の」 「身一つで転がり込めないのは、自分自身への蔑みではないのかね?」 谷と、斎藤の目が合う。 谷の脳裏に伊東の微笑が見えた。 その目が、語っている。 そう、ずっと語っていた。 「小物が」と。 「わ、私はっっ!!!」 谷がそう叫んだ瞬間。 「気にくわんものが、許せない性質でね」 斎藤が同時に呟いていた。 そして谷の胸に衝撃が走り…言葉を吐いた口は、血をも吐く事となっていた。 ドサッと倒れる彼の体を見下ろしながら、斎藤は口を拭いた。 「ああ、汚い汚い…」 そう、呟きながら、斎藤はその場を立ち去った。 「永倉先生!!!」 新八がギリギリで頭上からの刀をかわした時、吉村の声が届いた。 無様と判りながらも、転がって体勢を立て直した新八の視界に、声だけではなく吉村の姿も飛び込んでくる。が、やはりというか、吉村以外の味方の姿が殆どなかった。 死んだか、怪我で倒れたか、それとも新八の目に入らないだけか。 新八は最後の選択肢を願ったが、今はそれを確認する余裕はなかった。 「ご無事で!?」 「俺を誰だと思ってる!?」 気力で叫び返すと、吉村の顔が笑ったように見えた。 が、すぐにその視界を敵が遮った。 「誰だか知らないが…死ねっ!!」 「くそっ!名前くらい覚えておけっ!! 俺はなぁ、永倉…」 ゼェゼェと荒い息、ぐらつく視界で男を睨む新八の声を、遮る声があった。 「新八〜〜〜〜〜っ!!!!」 先に名乗られてしまったが、その声に新八が心底嬉しそうに笑った。 「って、言うんだぜ」 その新八の笑顔に、男が「あ」と思う間もなく… 男の脳天は、背後からの凄まじい力で割られていた。 血を噴き倒れる男の体の向こうから左之の姿が現れるのを見て、新八は心底安堵する心を感じた。 それでもまだ、多勢に無勢は変わらない。 吉村もまだ息のある隊士をかばいつつの応戦で、うまいことにはいかない。 「立てるか?」 「…当たり前だろ」 短く声をかけあう左之と新八にも、刃は情け容赦なく降り注ぐ。 「たかが一人や二人が増えた位でっ!!!」 誰かがそう叫んだ。 確かに今見るところは、その通りだろう。 しかし、新八はそれでも笑ったのである。 彼の視線の先にいたもの。 それは… 「沖田総司、参上!!!!」 透き通る様な声で叫ぶ総司と、傍らに鬼のごとき土方の姿。 その二人に向かって、新八は呟いた。 「遅い」と。 |
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実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。