初夏を思わせる風が頬を撫でる。
つい先週まで冬の空気に包まれていた空は、透明な青に変わっていた。
自転車で坂道を下る私の視界に、日差しに照らされて光る街が映った。
ここが、私の住む街だ。
やっと厚手のコートから解放されて、心まで軽くなったみたいだ。
風で巻き上がる髪も気持ち良くて、いつもと変わらない街が楽しく見える。
西から強く差し込む日差し。
それを受ける体が、少し熱を持つ。
ああ、冬が終わったんだ。
夏が来るんだ。
そんな予感を抱かせる、空気。
何だか風にも匂いがあるみたいだなんて、言ったら笑われるだろうか。
風でなびく髪を手で払うと、住宅街の中の我が家が見えてきた。
典型的な建て売り一戸建て。
いつもなら珍しくも何ともない家が、今日は違うものに思える。
何だろう。
凄い昔に戻った気分。
小学生の頃の学校帰りとか、そんな頃に…。
自転車を駐車場脇に停めていると、二階の部屋のカーテンが外に揺れているのが見えた。
白いカーテンが青空に揺らめく。
だけど、青空は急速に夕暮れに向かっていて、カーテンも見る見る間に黄色く変わっていくみたいだ。
ぼんやりとそんな事を考えて、カゴから鞄を出した時、私はやっとハッとした。
慌てて上を見ると、まだカーテンが揺れている。
ゆらゆら、ゆらゆら。
そのカーテンを凝視してから、私は慌てて玄関に向かった。
「只今!!!」
叫ぶように言って、靴を乱暴に脱いで、私は階段を駆け上がった。
そんなに広くない家だから、二階に辿り着くのも早い。
ちょっとドキドキする心臓を押さえつつ、二階の奥の部屋に私は飛び込んだ。
カーテンがゆらゆらと揺れている部屋に。
断りも無くドアを開けると、中から悲鳴が上がった。
「きゃっ!?」
「あっ…」
その姿に、私の鼓動は急速に収まっていく。
あからさまにガッカリした顏が見えたのか、悲鳴の主は、苦笑した。
「もう、ビックリさせないでよ、お母さん心臓止まるかと思った」
「…こっちだって…」
そこにいた母は、フローリングの床を掃除していたらしい。
私は溜息をつくと、自分の部屋に向かおうとした。
その背中に、母が声をかける。
「お兄ちゃんだと、思ったの?」
振り返ると、ニンマリと笑う母の顔があった。
「……知らない」
むっとして、私は乱暴にドアを閉じた。
「は〜〜〜っ!!!」
盛大に溜息をついて、私はベッドに倒れ込んだ。
バフっとホコリ臭い匂いが鼻をつく。
それに再度溜息を吐いて、のろのろとベッドから窓に手を伸ばした。
よれよれのお年寄りみたいに、ゆっくりと窓を開ける。
無理な姿勢だったから、ちょっとわき腹がつった。
何だか情けなくなる。
だけど…。
「…………ふぅ…」
窓から吹き込む優しい風に、私はゴロンと仰向けになった。
母は、兄の部屋の掃除をしていた。
ずっと住人の帰らない部屋は、放っておくとかび臭くなるからだろう。
そういう意味では、あの部屋は死んでいるのかもしれない。
そして、私の部屋は生きている。
別に、壁紙が違うわけじゃないけど。
置いてある家具も、似たり寄ったりなんだけど。
あの部屋は、生きていないんだ。
風に揺れるカーテンが、目の前を波の様に行ったり来たりする。
あの部屋のカーテンも揺れていたけど…母は掃除をするけど…
「…お兄ちゃん…」
今頃どこにいるのかなぁ。
7つ上の兄は、2年前から旅に出ていた。
それも、ちょっと家族を呆気に取らせる旅路に。
「俺、世界を回ってくるよ」
そう笑った兄の顔が、今でも目に浮かぶ。
はっきり言って、そう言われた直後の私たちは…
「はぁ!?」
食べていたご飯を吹き飛ばすほど、驚いてしまった。
兄は妹の私から見ても、明朗快活な人で、とにかく元気だった。
かといってスポーツに燃える人ではなく、むしろ文系人だったかもしれない。
そんな兄の夢は、何を隠そう「冒険家」だった。
小学校の卒業文集を読んでも、中学校の作文を見ても、高校の卒業アルバムの寄せ書きを読んでも、とにかく「冒険家」になると書いてある。
ずっとそんな兄の言葉を聞き流していたらしい両親は、その後にこう言った。
「…へぇ」
そして、許してしまった。
その、世界を回るという旅を。
まさに、この子にしてこの親あり。
反対したのは、私だけだった。
机の上に飾ってあるのは、兄から時々届く絵はがき。
兄はそれを、私宛に送ってくれる。
7つ歳の離れた妹に、兄は言ったのだ。
「お兄ちゃんが冒険家って、ちょっと妹として格好良く無いか?」
「…全然」
「あ、そう?」
旅の話を聞いて怒りだした私に、兄は困ったように笑うばかり。
今思えば、兄はどこまでも本気だった。
だから、大学に通いながらずっと、アルバイトをしてお金を貯めていた。
英語を習い、中国語を習い、他にも何か習っていた。
ロッククライミングを習い、裁縫等まで自分でこなすようにしていた。
ずっとそれを、元気な兄だ…と思っていた私。
あれは全部、いつか旅に出る事を考えていたのかと、気付いた時には遅かった。
「絶対反対!!! 反対反対反対!!」
一人で叫ぶ私に、兄は苦笑するだけ。
そしてとうとう、反対する私の頭をポンポンと叩いて…
兄は旅立ってしまった。
今でも頭にその感触が残っている。
当時中学生の私に、まるで小学生をあやすかのように置いた手。
怒って泣いて、空港になんて見送りに行かないと叫んだ私に、兄の置いた手。
「じゃ、行ってくるよ」
そう言って旅立った兄は、それからずっと、私に絵はがきを送り続けてくれている。
今は、ヨーロッパにいるらしい。
いつも、絵はがきには一行しか文が無い。
「……まだ、怒ってるか?…」
呟いてみて、私は心から溜息をついた。
『まだ、怒ってるか?』
そればかりを届けてくる兄に向けて、深い溜息を一つ。
兄よ、この2年で私も大人になりました。
むくりと体を起こすと、窓の外の景色を見た。
さっきまでキラキラと輝いていた街は、今は濃い影を作っている。
夕暮れは早い。
あっという間に空が深い青に変わっていく。
この空は、兄の元にも繋がっているんだろうか。
兄もどこかで、この空を見上げているんだろうか。
昔、空はどこまでも果てしなく、外国は映画の中の世界だと思っていた。
漢字が書けない頃、大人の書く文字が呪文の様に見えた。
夏が来ても春が来ても、延々と続く小学校生活に、終りは来るんだろうかと真剣に思った。
去年も今年と同じだから、来年も今年と同じだろうと考えていた。
中学校の制服に身を包んだら、いきなり自分が大人になった気がした。
そして、世界は一気に広がった気がした。
自分がまるで、世界の全てを知りえた気分にもなっていた。
そしてやっぱり、去年と今年と来年が一緒だと思っていた。
いつからだろう、そんな自分を子供だったと思えるようになったのは。
こんな事を考える自分も、まだまだ子供なんだろうなと思えるようになったのは。
そんな事を考えた時、世界の果てを知りたくなった。
世界の中で、自分がどれくらいの位置にいるのかを。
そして、自分が『自分』であるうちに、色々なものを見てみたくなったのだ。
今の私がいるうちに。
今、テレビをつけると、悲しい事件ばかりが聞こえてくる。
世界のどこかで戦争があり、病気があり、悲しみがある。
その世界のどこかに、兄がいる。
きっと父も母も、思っているだろう。
どうか、無事でいてくれと。
タワーが崩れた時、飛行機が落ちた時、爆弾が落ちた時、終戦の鐘が鳴った時、兄を思った。
どうか、無事でいてほしいと。
今日、私の頭上にミサイルが降らないとは言い切れない。
だけど、私は思う。
兄よ、どうか無事でいて、と。
兄の無事を祈る事で、自分の無事を確認しているだけかもしれない。
いつからか、遠い世界の出来事だった争いの声が、身近に聞こえるようになってから。
人は経験しないと気付かない。
成長しないと、気付かない。
机の上の絵はがきを一枚取る。
一番最近に来たはがきだ。
そこにもやはり、一行だけ。
『まだ、怒ってるか?』
私はその文章を見て、笑っていた。
兄よ、私はもう怒ってません。
それは気付いたから。
兄がその行動に走った気持ちに。
だから…ね。
私はもう一度、その絵はがきを見つめる。
『まだ、怒ってるか?』
「…ばっかだよなぁ…」
ふふふふ、と込み上げてくる笑み。
返信先も書かないで、質問されたって…
「答えられないじゃないさ!」
兄よ、早く気付いて下さいな。
廊下から電話の鳴る音がした。
母のスリッパがパタパタ鳴る。
その二重奏の後で、母が電話に出る声がした。
私は絵はがきを机に戻す。
返事の出来ない質問状が、定期的に増えていくようだ。
母の声がうわずった。
何かな?と思いながら、制服を脱ぎ始めた私の部屋に、母が飛び込んでくる。
「大変!!!」
「わっっ!?」
さっきとは逆転した立場で、私と母は向きあう。
そして…
「お兄ちゃんから、電話!」
私はその時の母の顔を、一生忘れないだろう。
そして、兄の第一声も。
「まだ、怒ってるか?」
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