窓の外には灰色の街が広がっている。
今日は朝から雨のせいか、その灰色がいつもよりも黒く見えた。
霧が出ているかのような、霞む視界。
濃い灰色の街が、ぼんやりしている。
ここが、僕の住む街だ。
土曜日、窓の外を見ていると、部屋に誰かが入ってくるのが判った。
振り返ると妹が、片手に台本のような冊子を持ち、もう片手には竹刀を持ってソファに座るところだった。
僕と妹の間にあるテレビでは、数週間前から始まった戦争についてのニュースが流れている。
行った事など無い国の、見慣れぬ風景。
妹がそれを見て「何にも無い国ね」とチャンネルを変えた。
僕は景色を眺めていた窓から離れ、台所へ向かう。
「何読んでるんだ?」
冷蔵庫を開けながら訪ねると、妹がソファの上であぐらをかいて笑った。
「今度舞台をやるの」
足の上に冊子を広げ、両手に竹刀を構えて妹は素振りの真似をする。
やはりあれは、台本らしい。
「何の?」
「新選組」
「へぇ」
僕はコップにウーロン茶を注いだ。
コーラがあれば良かったのに、と思いながら。
新選組って、何だっけ?
僕の疑問は顏に出ていたらしい。
「お兄ちゃんってさ、時々阿呆ヅラするよね」
3つ下の妹は、最近小憎らしい口をきく。
「新選組ってさ、昔の警備組織よ、ちょっと過激なね」
妹がまた竹刀を振った。
僕はそれを見ながら、阿呆で悪かったなと答える。
大体にして、こいつだって自分が演じる事が無ければ知らなかったに違いない。
妹は、中学に入って演劇部に所属した。
最初はミーハー気分で入ったようだが、最近では真剣に演技に興味を持ち始めたらしい。
だからだろうか。
時々言動が芝居じみていて、僕は苛つく事があった。
ソファの上で台本を声に出して読む妹。
彼女がチャンネルを変えたテレビでは、美味しそうなアニメのヒーローが活躍していた。
パンに世界が救えるのなら、俺は宇宙を救っているね。
ウーロン茶を口に含みながら、僕は思った。
「…五月蝿いな。自分の部屋でやれよ」
雨の音、ヒーローの声、妹の練習、更には頭上を飛行機が通過したらしい轟音。
「だって、部屋でやると孤独なんだもん」
そう口をとがらす妹は、僕の言う事なんて聞きゃしない。
空を見上げた。
僕の住むこの部屋は、マンションの11階にある。
それでも空までの距離は、果てしなく遠い。
まだまだ厚い雲が空を覆っている。
雨は当分止みそうになかった。
その時だった。
雨の音に紛れて、何か聞こえたのだ。
「何だ?」
「何よお兄ちゃん、空耳?」
相変わらず素振りと台本読みをしている妹が、僕を見て笑った。
反抗期なら両親に当ってくれ。
僕は妹を無視して、耳を澄ませた。
やっぱり、何か聞こえる。
僕は雨を気にしながらベランダに身を乗り出してみた。
すると、下から誰かが呼んでいる。
「おお〜〜い!こっちだこっち!!」
「…あ?」
雨の飛礫を後頭部に受けながら僕が下を覗き込むと、そこにはチェックの傘を差した友達の顔があった。
さすがに11階からだと、小さく見える。
「どうしたんだよ?」
大声で返すと、友達は僕を見上げ、しかめ面で何か言った。
雨を受けているから、眉をしかめているのだろうと思った。
僕の声が聞こえづらいから、しかめ面をしているのだろうと思った。
濡れた手すりに体重をかけ、僕は叫んでいた。
「誰が!!?」
「保だ!保が刺されて…!!!」
友達は、友達の死を叫んでいた。
開けっ放しの窓の向こうで、妹が目を丸くしている。
僕はそんな姿を視野の隅に捉えつつ、部屋を飛びだしていた。
何でこうゆう時って、スニーカーがすんなり履けないんだろう。
何でエレベーターはすぐに来ないんだろう。
マンションの出口で、入ってくる人と肩がぶつかった。
何でこうゆう時って、周りに邪魔な人がいっぱいいるんだろう。
下に降りると、マンションの前で友達が待っていた。
彼の顔が青白く見える。
「…な、何で…」
「通り魔だって、俺も父さんから聞いたんだっ。保が死んだって…。そ、そんで今保ん家に…」
通り魔!?
死!?
何だよそれ。
保の顏が脳裏を過る。
何だよそれ。
昨日まで笑ってたじゃないか。
通り魔って何だよ。保が何をしたんだよ。何でだよ。
雨の中を全力疾走した先で、皆が泣いていた。
雨が顏についたんじゃない。
クラスの女子もいた。先生も来た。見知らぬ大人が一杯いた。
ザーザーと鳴る雨の音と一緒に、空気がザワザワと揺れていた。
保のお父さんが出てきて何か言ってたが、全部は理解出来なかった。
だって、判らない。
本屋に出かけた保。ちゃんと金を払って、好きな漫画を買っただけの保。道を歩いて家に帰る途中だった保。
先生が言った。
「とりあえず先生は残るが、お前らは帰れ。通夜や葬儀については、後で連絡網を回すから…」
判らない。
とりあえずって何だ。
通夜って、葬儀って何だ。誰のだ。
そんなの、田舎の爺ちゃんの時しか出た事ないぞ!
愕然とする僕達を分けて、警察官が保の家に入ろうとした。
警察官…正義の味方。市民の味方。悪から僕達を守ってくれるヒーロー…。
「保を殺したのって誰だ!!!?」
誰かが警察官の腕を掴んだ。
うちのお父さんと同い年くらいの顏が、振り向いた。
「まだ捕まってないけど、大丈夫。皆は安心しておうちに帰りなさい」と。
何が大丈夫なんですか。
保を殺した奴が、まだそこらを闊歩しているかもしれない。
友達が殺されて、理由も判らず、犯人も判らず、安心?
保は安心してたんじゃないのか!?
ただ歩いているだけで、何で死ななきゃいけないんだよ…。
うちに戻ると、買い物に出ていたお母さんが戻っていた。
僕の顔を見るなり「大変だったね」と言う。
黙って頷くと、妹がチャンネルを変えた筈のテレビで、また戦争のニュースが流れていた。
その妹はかける言葉も判らない様子で、僕の事を気にしている。
ふと、その手にまだ例の台本がある事に気付いて、僕は呟いていた。
「…新選組がいれば、保は死なずに済んだのかな」
「そ、そうだよ、そうだよね!きっと成敗してくれてたよ!!」
僕から声をかけたのに安堵したのか、妹がソファの上で跳ねた。
でも、もう保は戻らない。
妹をたしなめるお母さんの声が聞こえる。
僕はそれを無視して、テレビの前に座った。
ぼうっと画面を眺める。
最近のテレビは、もっぱら戦争のニュースばかりだ。
見た事も無かった国の、行った事も無い国の、戦争のニュースが流れている。
中身に興味があったわけじゃない。
今はただ、何かを見ている、というポーズを取りたかっただけかもしれない。
「何も無い国だよね〜」
お母さんの背中に舌を出しながら、妹が言った。
その時、画面には瓦礫の山の前で泣く親子が映っていた。
僕の顔に、涙がツウ…と流れた。
妹がビクッとひるむ。
何も無い国で、人が死ぬ。
何でもある国で、人が死ぬ。
パンに守れる平和があるなら、僕には宇宙だって守れるのか?
僕は、保が傷つけれた時、空を眺めていたんじゃなかったのか?
とりあえず帰れと言われ、帰らざるをえない自分。
警察官に安心しろと言われて、そうせざるをえない自分。
新選組がいたら?
結局、誰かに頼っているだけじゃないか。
翌日。
保の死は、テレビでは流れなかった。
ただ、新聞の地方面に小さく記事になっただけだった。
テレビでは、昨日と変わらずに戦争のニュースがメインになっている。
その他にも殺人事件とか、交通事故とか、どこかの長寿村とか、健康に良いお茶の紹介とか、自慢のペットとか、様々な話題が踊っていた。
月曜日、学校に行ったら保がいそうな気がした。
殺人事件だから、保の身体はすぐには家に帰れなかったらしい。
警察関係の病院で、色々と調べられたそうだ。
通夜と葬儀の日程は、決まり次第連絡すると言われた。
僕は泣いた。
でも、隣の部屋から談笑する声が聞こえて、涙が止まってしまった。
僕はこんなに悲しいのに。
悔しいのに。
隣の人には関係の無い話なんだ。
だから隣の隣の人には、もっと関係がないかもしれない。
隣街の人にも、隣の県の人にも、違う国の人にも、関係ない事なんだ。
そう、きっと妹にも…。
保を知ってる僕には、こんなにも辛くて悲しくて苦しい事なのに。
僕が死んだ時、誰が泣いてくれるんだろう。
窓の外では、昨日までの雨が上がり太陽が顔を見せていた。
灰色の街が、今日は多少明るく見える。
僕はこの街をよく知っているけども。
僕の事を、この街にいるどれ程の人が知っているのだろう。
テレビの中に映る人々は、テレビのこっち側を知っているんだろうか。
多分知らないかもしれない。
そして、僕達も向こうの事を詳しくなんて知らない。
でも、知らない人達が今日何人死んだとか、何人が重傷だとか報道される。
保の死は報道されないけど、知らない国の人の死は報道されるんだ。
命の価値って、重さって何だろう。
報道されるから重い?
そうじゃない。
報道されないから軽い?
そうじゃない。
身近に感じるから重い?
知らない国だから軽い?
悪い人がいる国だから軽い?
付き合いが長い国だから重い?
家族だから?
友達だから?
恋人だから?
大人だから子供だから老人だから男だから女だから有名人だから無名人だから
肌が黒いから白いから黄色いから病気をもっているから
言葉が違うから文化が違うから動物だから植物だから…
そうじゃないんだ!
自分が悲しむ命があると同時に、誰かが悲しむ命があるんだ。
誰かが抱きしめてあげたい命があると同時に、誰かに抱きしめられたい命があるんだ。
悲しみは無くならないけど、いつまでも悲しんでもいられない。
いつかはそれを乗り越えていかなくちゃいけない。
でも、出来るだけその悲しみが減るように、守れる誰かがいるのなら守ってあげたい。
それは、僕が守られたいから。
あの坂を登れば、あの川を越えれば、何かを得られると思うから頑張れるんだろう。
明日が有ると思うから、眠れるんだろう。
テレビ画面で流れる映像の中で、少年が呟いた。
「怖くて眠れないよ」
僕は、静かに目を閉じた。
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