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暗闇にぼんやりと浮かぶ花街の灯。 その灯のもとに群がる蛾の如く、妓達が男の腕に絡みつく。 そんな土方の言葉に、彼の隣で酒を傾ける妓が笑った。 「嫌やわぁ…蝶と言ってくれればええのに」 鼻をつく白粉の臭いと、匂い袋から香る臭い。 土方は「ふん」と斜めに妓を見ると、その首筋に顏を落とした。 妓が「やん」とか何とかお決まりの声を上げるのを聞きながら、土方は耳を澄ましていた。 この夢の町には、彼を鬼に引き戻す音はしないはずだったから…。 「……」 小さく妓の名を呟く土方。 その声に、妓がピクっと反応した時、土方は気付くべきだった。 自信の身に迫る危険を… 時、左之は参ったなぁと鼻の下を伸ばしていた。 目の前にいるのは、まだ若い妓。 聞けばこの遊女町には来たばかりだと言う、まだ商売臭さの無い純粋な反応の持ち主。 その証拠に、左之が手を触れればビクっと体を震わせる。 「もしかして俺が初めてとか?」と尋ねれば、顔を伏せて小さく顔を振る仕草も可愛らしい。 「ま、まだ…その、…慣れてなくて…」 小さい声が返ってくると、左之は身震いした。 『く〜〜っ! 久々のめっけもの!可愛え〜〜っ!!』 ウハウハである。 左之は緩む顏をぐっと我慢して、女の手をとった。 そしてきりっとした顏で妓を引き寄せると、その腕の中に閉じ込める。 「大丈夫だ、優しくすっから…」 そんな甘い声を出せば、妓が顏を赤らめる。 これはますます堪らない…と左之がゴクリと唾を飲み込んだその時。 「何ですって〜〜〜〜〜〜っ!!」 という妓の絶叫が聞こえたのは。 土方はぎょっっとして妓を見た。 それは鬼の土方がギョッとする位、鬼の形相をした妓の顏だった。 「な、何だ!?」 「何だじゃないわ、一体誰の名前を呼ぶかと思ったら…私の名前を忘れたの〜〜っ!?」 妓の叫びに土方の顔が「え?」となる。 そして次の瞬間には「あっ!」と口が開いた。 「ま、間違った…」 そう、土方は妓の名前を間違えて呼んでしまったのである。 立ち上がり土方に迫る妓は鬼気迫る顏で言った。 「私の名は!?」 その質問に土方が詰る。 そして少し考えてから、ある名前を口にすれば… 「…………許さない…っっ」 ギリッと妓が涙目で土方を睨んだ。 どうやら…また間違えていたらしい。 「痛いっ!!!」 「わ、わりいっ!!!」 左之は慌てて謝る。 いきなり他所の部屋から聞こえてきた叫び声に驚いて、思わず妓の首筋に噛みついてしまったのである。 まさにガブっとした歯形が妓の肌に残る。 「ひ、酷〜〜〜いっ!」 「わ、悪い、まじで悪かった!!」 泣きそうな顏で怒る妓に左之は必死に謝った。 そして「何だったんだ?」と見えない絶叫主に対して眉をしかめる。 「痛かったか?」 気を取り直して、左之は妓の首筋に指を伸ばした。 優しく撫でる振りをして、実はその中へと手を伸ばす魂胆だ。 「…うん…大丈夫」と涙で潤んだ瞳が左之を見上げる。 二人は見つめあい、そして顏を近づけて… 『よっしゃ!』 今度こそ!と左之が心の中で叫んだその時。 歴史は繰り返された。 「何するのよ〜〜〜っ!」 バっシーンっと左之のいる部屋の襖が飛んだ。 「うぉおっ!?」 「きゃああっ!?」 驚いた二人が思わず抱きあって転がると、吹き飛んできた襖の上から別の妓が立ち上がる。 その妓はこちらの事など見もせず、「き〜〜」と叫んで廊下へ走っていった。 どうやら近い部屋で女同士が喧嘩を始めたらしい。 左之は呆気にとられて壊れた襖を眺めていたが、コホンと一つ咳をして、律義に自分でそれを直した。 そして何も無かった顏で妓の元に戻る。 「さ、左之様…?」 不安そうな妓の顏に、左之の内心が「ぐ〜〜っ」と掴まれる。 「大丈夫だ…」呟いて妓を抱き寄せれば、こくりと妓が小さく頷いた。 土方は「参った…」と部屋の片隅で座り込んでいた。 目の前では戦う妓が二人。 元はといえば、名前を間違えた自分が悪いのだが… 運悪く、間違えた名前の妓もこの店の妓だったらしい。 「…記憶に無い…」程遊んでいるつもりもないのだが、特定を作らない自分が悪いのだろうと納得はしていた。しかし…と土方は思う。 「あんたなんて、この前男に逃げられたクセに!!」 「ふん!あんなのは金だけが目当てだったから良いのよ!」 「強がっちゃって!他に良いのがいるわけでも無いだろうにっ」 「いるわよ〜」 「へぇ?誰?どこの誰? 」 妓の争いとは…凄まじい。 何故この程度に言い争いで、あそこまで身がボロボロになるのだろう? 土方は不思議なものを見るかのように、首を傾げた。 と、その土方を片方の妓が睨む。 「え?」 思わずビクっと背筋を伸ばす土方に、妓は言った。 「この人、この間私の事を『最高の女だ』って言ってくれたわ!ねぇ、土方様?」 そういって寄り添ってくる妓に、土方は曖昧に頷く。 正直、記憶に無い。 そんな事も言ったかもしれないが… 土方がぼんやり考えていると、空いた片方に、もう一人の妓がくっついてくると言った。 「何馬鹿言ってるのよ!歳さんは私の体が一番相性が良いって言ったわよう?」 妓が「歳さん」を強調する。 そんな事も…言ったかもしれない…と土方はやっぱり曖昧に頷いた。 すると、左右から同時に声がした。 「で、どっちが本当は良いの?」 その時、土方は一瞬で状況を理解した。 これは… 『下手な事を言えば…殺される!!』 左之は耳に届く女達の怒鳴り合いに眉をしかめていた。 一体何をやってやがる…と舌を打つ。 せっかくこっちが良い雰囲気なのに、妓が怯えてしまっていた。 左之は横たえた妓の頬を優しく撫でながら、その耳元に呟いた。 「気にすんな。きっとくだらねぇ男の取りあいさ」 「…左之様は…」 「ん?」 妓の体と布越しに接しながら、左之は気持ちが高ぶるのを感じていた。 そこに、妓が小さなかすれるような声で尋ねる。 「左之様は、他にも良い相手がいるの…?」と。 いる。 そう答えてしまえば、きっとこの妓は手に入らない気がした。 でも、現実を言えば、いる。 そりゃもう山ほど。 気分でとっかえひっかえと言っても良かった。 だが、今回のこの清純さは久々の大物だ。何だか本当の恋をしているようで、初な気持ちが懐かしい。 左之はちょっと微笑んでから、優しく言った。 「これからは、お前だけさ」 そう言えば、妓の頬が染まるのが判る。 左之は心で叫んだ。 『新八っつぁ〜〜ん!俺、こいつ一本に決めちゃうかも!!』 親友の呆れる顏を想像しつつも、左之は弾む気持ちが止められなかった。 そして、いよいよその体に覆いかぶさった…のだが。 二度ある事は、三度ある。 昔の人が作った言葉に嘘は無い。 「許せない〜〜〜〜っ!」 「うわ〜〜〜〜っ!!」 そんな叫び声の合唱が聞こえた瞬間、再び襖が吹き飛ぶ音がした。 その上、今度はその襖が左之の上に乗っかり、更にその上を誰かが踏んだのである。 「うげっっ!?」 「ぎゃっ」 潰された二人が叫ぶが、周囲はそれどころじゃない。 土方はたまたま逃げ込んだ部屋の奥で、自分に殺気に満ちた視線を送る妓を迎え撃っていた。 何と3人に増えている。 妓達は襖の上で揃って土方を睨む。 「さぁ!私たちの名前を呼んでみてっ!!」と一人が叫べば 「誰が一番か言って!他の妓を選んだら、ここで舌を噛みきって死んでやるっっ!!」と一人が脅迫し 「今日は私に会いに来る約束だったじゃない!」と新しい一人が叫んでいた。 ああ、もてる男は辛いね、と土方はちょっと泣きたい気分だ。 何で妓を抱きに来て、妓に追われなきゃならないんだ。 が、もとはといえば、自分が悪いのは判っている。 それにしても、ここはそういう商売の場所なんだから、浮気とかで責められる事は無いんじゃないか?と思うのも事実だ。 しかしその答えでは、土方の男がすたる。 「…………う…」 さぁ、どうする!? 土方の頬を汗が一筋伝った。 瞬間。 「…っざけるな〜〜〜〜っ!!」 「きゃ〜〜〜〜〜っ!?」 襖が持ち上げられ、妓達が悲鳴と共に転がり落ちる。 驚いて土方が見れば、何と襖と妓達の下から現れたのは、左之ではないか。 「さっきからピーピーぎゃーぎゃーと、どこのボケ男が相手だ〜〜っ!!」 叫ぶ左之に土方が言った。 「俺だ」と。 そこで左之が固まる。 まるで土方が誰だか判らないという顔をして、左之は固まっている。 するとその足下から若い妓が立ち上がった。 「…いった〜…」と呟いて頭をさする妓は、どうやら左之と一緒に潰されていたらしい。 その妓の上げられた顔を見て、土方は「あ」と呟いた。 その、妓の名前を。 「え?」 「あ」 「へ?」 若い女は土方の顔を見て止まる。 そして他の妓達は、自分たちの名前は間違えた土方が、正しく名前を呼んだ妓を睨んだ。 更に左之は、見つめあう土方と自分の相手を交互に見る。 「…お前、この間の…」 土方の呟きに妓の顏が歪んだ。 「この間、故郷に帰れるって、俺が祝い金をやった妓じゃねぇか…!?」 「………何だって!?」 妓を指さして言う土方の言葉に、左之の顏が歪んだ。 そして妓を見れば、妓はそれまでの大人しそうな雰囲気をかなぐり捨てて言ったのである。 「………っち!せっかく新しいカモが見つかったと思ったのに…っ!!」 その憎々しげな口調に、左之が固まるのを見て、土方は笑った。 「騙されかけたな、お前」と。 だが、左之は叫んだ。 「あんただって金を騙しとられたようなもんじゃねぇか!」 「ああ!? この野郎、副長に向かって何て言い草しやがる!」 「何が副長だ!俺だってもう少しで上物が食えると思ってたのに!」 「てめぇ、覚悟は出来てるんだろうな!!」 が〜〜っと叫ぶ左之に、だ〜〜〜っと土方が怒鳴り返す。 が、二人ははっと気付いた。 視線を感じる…。 ゆっくりと、二人が一緒に視線を動かすと… 「…………」 こちらを睨む4人の妓。 「名前、覚えられるんじゃない」 「そんな簡単にお金、あげるんだ〜」 「こんな小娘にまで手を付けてるなんて…」 「左之様も、食うからにはお金、くれるんでしょうね?」 ニコニコニコニコと、笑う4人が2人に迫ってくる。 じりじりじりじりと追いつめられて、2人は笑った。 「今日は帰りたいな」と左之が。 「ああ、仕事も溜まってるし」と土方が。 しかし 「逃がさないわよ」と妓達が。 土方と左之は顏を見合わせた。 そして… 「近道だ〜〜〜っ!」 なんと2人は窓から道へと飛び降りてしまった。 驚く妓達は、慌てて窓から逃げる2人を見た。 なんと2人は、怪我も無く道に立つとそそくさと走り出す。 周囲の人々は空から振ってきた男達に驚いて道を明けるのだが、二人はなんとその人々にお礼を言う余裕っぷりだ。 妓達は窓に寄り添い、それを苦笑しながら見送る。 どうせ追いかけても追いつけないのだから。 随分遠くになってから「またな」と手を振る男達に、妓達は… 「絶対来てよね〜」と笑ったのだった。 また夜が明ければ二人は武士に戻る。 それまでの、ちょっとだけやんちゃな子供に戻る時間。 一晩だけでも、艶っぽいお釈迦様の手の平で遊んでいきなさいよ…そんな妓達の笑い声がいつまでも京都の町にこだましていた。 |
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