この雲を乗り越えて、夏が来る

泳ぐ月

夏が濃い。
体にまとわりつく湿度と空から落ちる日差しは、既に盛夏のそれだった。
一雨毎に季節が確実に切り替わっていくのを感じながら、土方はうんざりと着物の襟を緩めた。
盆地の京の夏は江戸の夏より辛い、それが実感として体を包み込んでいた。



斉藤という男は不思議な男だった。
会津からの紹介で新選組にやってきたその男を、最初土方は胡散臭げに見ていた。目つきが悪いのは元からだが、そこに人を探るような光を漂わせていたのだ。
そんな目でじっと無言のまま睨みつけられたら、江戸から土方と行動を共にしている新八や左之や平助だって尻の座りが悪くなる。
しかし、斉藤はしれっとしていた。
土方でさえ自分の眼光が効かないとなると、ちょっとムッとしたものだが。
「お、斉藤。ちょっと良いか」
「…はい」
月日がある程度経った頃には、土方は彼を睨む事無く軽く声を掛ける様になり。
彼は人々に、頼もしい仲間と認識されていた。





「大阪へ?」
土方の話に、斉藤の眉がぴくりと動く。
端正な顔立ちをしているが、どこか線が尖った感じがするのは気のせいだろうか。斉藤の立ち居振る舞いは決して乱暴ではないし、新八や左之の様に大声ではしゃぎあう事もない。
彼らより遥かに「大人」だと思ってはいるのだが。
「ああ、俺達の名を借りた押し借りがそこらで行われているらしい。どうせ幕府に逆らおうって輩の浅知恵だ。いっちょ行ってとっつかまえてやれって話さ。その面子にお前さんにも加わってもらう」
土方の口調は存外に乱暴だ。
自他とも認める色男には違いないのだが、中身を取りだしてみればやんちゃな子供が居座っている。
「芹沢も行く」
最後に声を潜めた土方の顔を、斉藤がちらりと見上げる。
切れ長の目の向こうで、黒い珠がきらりと光った。
「総司や新八、島田も行く」
「芹沢局長を押さえるには十分でしょう」
「ああ。お前さんに押さえて欲しいのは、総司と新八だよ」
あっさりと言いながら、土方は蒸し蒸しする部屋の空気に堪え兼ねて団扇を手にした。
白い肌を汗が伝う。
「……子守をしろと?」
「芹沢なんぞにやれねぇ2人だ」
にやりと口元を歪めて土方は笑った。
「お前もな」と目を細めた彼に、斉藤は軽く肩をすくめるだけだった。



暑い日差しの照りつける中、大阪に到着した壬生浪士組一行。
彼らは日差しと共に、大阪市井の民の冷たい視線にも晒される事となった。
「随分とまた、悪評を流してくれたみたいですね」
白い目で見られても一向に気にする風もない総司が笑うと、傍らの新八も被っていた旅支度の笠を脱いで団扇代わりにしている。
「畜生、ごり押しで集めた金使って好き勝手に飲み食いしてやがるんだろ」
「でしょうね〜私なら葛切りの方がいいですけど」
「止せよ、このクソ暑いのに甘い話すんな」
日頃京で粗暴な働きをして金を集めている芹沢を前にして、まったく悪びれる事のない2人の会話に島田がはらはらとする。芹沢は暑くて怒鳴る気もないのか、2人をぎろっと一度睨んだだけで宿へと足を向けた。
「お二人とも、お願いだから問題起こさないで下さいねっ」
芹沢の不機嫌な空気をぴりぴりと感じて、島田は泣きそうになりながら総司と新八に訴えた。
大きな体を縮こめてお願いをする様は、ちょっと可笑しい。
「島田、頼む相手が違う」
「え?何ですか斉藤先生」
「お願いだから問題を起こさないで下さいね、芹沢局長。だろ?」
にこりともせずに平気で芹沢の怒りを買いそうな発言をする斉藤に、総司と新八は笑ったが。
「…お願いしますよ、斉藤先生も…」
島田が真っ青になって倒れ掛かっていた。
先頭を行く芹沢の不機嫌さを除けば、後は暑さにだれる若者たちである。
それにしても…と芹沢と僅かに距離が空いてから、やっと総司が声を潜めて新八に囁いた。
「こちらで私たちの名前を借りる不逞浪士と芹沢さん、何が違うと思います?」
「図体」
くっくっくっと肩を揺すって笑う新八に、総司も可笑しそうに肩をすくめた。
「私思うんですけどね、何か問題が起きなきゃ良いなぁって」
クスクスと笑いながら総司は続けた。
口は笑っているのだが、目は笑っていない。そしてその眼光が芹沢の首筋を睨んでいた。
その視線に気付きながら新八も「そうさね」と顎を捻る。
「そりゃあちらさんも、思ってる事じゃねぇの」と。
やはり新八も同様に芹沢の後頭部を睨みながら。
2人の減らず口にただドキドキしている島田の傍らで、斉藤は涼しい顔を保ったまま小さく吐息を付いた。
どうやらこの大阪行。
討つ目的がそれぞれ違うらしい。
目深に笠を下ろした斉藤の視界の隅で、芹沢の赤ら顔がどす黒く変色して総司と新八を捉えていた。



大阪の夜も、京の夜と同様に気怠い暑さだった。
昼間、不逞浪士捜索に走った若者たちは、旅疲れもあった体を引きずって飲み屋へ向かう。
酒を飲んで騒ぎたい気持ちも勿論あるし、風呂にさらっと入って休みたい気持ちもある。
ちらりと酒を飲んで汗を流して寝るのが一番だろう。
だが、今夜の酒は芹沢局長ご所望なのである。
不逞浪士や大阪の民の白い目よりも何よりも、一番しんどい隊務かもしれない。
島田等はそう思っていたものだが。
「何で? 奢ってくれるんでしょう、芹沢局長が♪」
「不逞浪士どもに見せてやりたいね、壬生浪士組にこの人ありってよ」
にこにこと、総司と新八の会話が彼らの頭上をひんやりと撫でていく。
斉藤は黙々と酒を口に運ぶが、2人は陽気である。
その陽気さは疲れた平隊士に安らぎを与え、芹沢の気配がどす黒く渦巻いている事に気付いている島田に生きた心地をさせなかった。
「…別に無理に付き合えとは言わんぞ」
ふんっと鼻息一つで全てを掻き消す勢いで呟く芹沢に。
2人が「とんでもない」と手を振った。
「局長をお一人になんて、させません」
「そうそう、そんな事したら俺らが怒られちまう」
-土方さんにさ。
間違っても、大阪で芹沢に横暴を働かせるなと厳命を受けて来た2人。押し借りをする不逞浪士と同じ事を芹沢にされては堪らない。だから2人は徹底的に芹沢にひっついているのである。
あからさまに口にしながら。
-あなたもあの不逞浪士共と同じ。
あからさまに目を光らせながら。
-いざとなれば俺達があんたを斬ります。
芹沢は笑顔の下に殺気を隠す総司と新八から視線を外し、斉藤を見た。
じゃあ、お前は何だ?




>宿までの帰り道。
平隊士達を先に帰らせて、芹沢先生は我らが送ると彼を囲んだ総司・新八・斉藤。
島田は不安そうな顔をしながらも、新八に蹴られてやっと宿へ走っていった。
空には熱気で揺らぐ黄色い月。
丸まると光ったそれが川面に姿を映す中、そよぐ生暖かい風に、芹沢の足がふと、止まった。
散々酒をのみ、おぼつかなかった足が、ぴたりと止まったのである。
半歩後ろには総司と新八が、芹沢より数歩前には斉藤が。
囲むように歩いていた彼らを見ずに、芹沢の足が止まった。
ぬるいうねりが彼らの隙間を縫っていく。
芹沢の酒で赤らんだ顔から覗く瞳が、意外に力強さと鋭さに溢れている事に後ろの2人が気付いた瞬間。
2人の目の前で、芹沢の手が懐に伸びた。
一瞬で、ご愛用の鉄扇が顔を出す。
「どっちに来る!?」
サッと、総司と新八も酒が入っているとは思えない動きで、刀を抜いた。
ためらいはない。
あの鉄扇を食らえば命を落とす。
これは真剣勝負だ。
新八に鉄扇が来たら、総司が首を。
総司に鉄扇が来たら、新八が胸を。
2人は互いに呼吸で会話と合図を交わして、振り返る芹沢を見た。



キラリ。
まるで軽やかな蝶の如くひらめいた鉄扇が、新八に向かう。
ニヤリと笑った芹沢の口元を見ながら、新八も笑った。
「頼むぜ総司」と目を輝かせた彼が、芹沢の鉄扇を受ける。
その瞬間を見逃さずに、総司の刀が芹沢の適当に結われた髪の毛に隠れる首を捉える。
「捨て身ですか、芹沢先生」
総司は手加減など一切考えない剣先を芹沢に向けた。
全ては一瞬。
芹沢が新八を向いたのは、ただの偶然。
総司が芹沢に剣を向けたのは、必然。
そして。
キラリ。
光った鉄扇、受けた刀。
その同じ一瞬で、芹沢の首に突き刺さるはずだった総司の刀が。
「っ!?」
手元を狙って飛んできた小石に弾かれて、落ちた。





はっと、3人がそれぞれに息を飲む。
新八と芹沢が鉄扇と刀を向けあう中、総司は自分の手元を見てから、ゆっくりと芹沢の向こうを見た。
そこにいるのは、静かな表情のままの斉藤。
彼が、小石を投げたのは、必然だろうか?
「何故、止めた?」
新八も総司も声が出ない中で、芹沢が鉄扇を振り上げたまま斉藤に尋ねた。
彼は鉄扇で新八を弾き飛ばし、首を狙う総司を返す力で打ちのめすつもりだった。
どうなったかは知れない。
ただ、負ける気などさらさら無かった芹沢にしてみたら、斉藤の助太刀は余計である。
「お前は、こいつら側だと思ったが?」
「そうですよ」
あっさりと、斉藤が頷く。
総司が落ちた刀を拾い上げ、新八の刀を押さえつけている鉄扇を下から弾いた。
特別に抵抗する風もなく、芹沢は鉄扇を引く。
「どういうつもりだ?」
芹沢は尋ねる。
総司も新八も、揃って芹沢から数歩遠ざかりながら、やはり斉藤を見た。
何故、止めたのか。
土方からは「斬らずにおさめろ」と言われてはいたが、「斬ってしまっても良いだろう」とは総司と新八の、大阪には来なかった仲間達の弁でもある。
それを。
3人の視線に、斉藤は長い髪を払い。
のっそりと自分の腰に差した刀を抜いた。




白い刀身が夜道に輝く。
彼はそれをやや高くかざすと、空に浮かぶ丸い月を見上げた。
丸い月が、刀の波形に乗って泳いでいる様な、錯覚。
うっとりと輝くそれを見ながら、斉藤は暫くして呟いた。
「ほら、月が泳いでいますよ、風流ですねぇ」
そう、涼しげな顔で。



結局、その夜芹沢は引いた。
総司と新八も引いた。
それ以来、彼らが殺気を向けあう事はなかった。
大阪の力士との乱闘などはあったが、仲間内で剣を向けあう事は無く。
彼らは京に戻ったのである。
何かしらの成果を得て。






不敵に笑う土方に、総司と新八が揃って帰京報告をする。
2人は土方の顔を見て、斉藤を仕向けたのはこの男だと理解した。
「あいつ、お前らと違ってここがありそうだからな」
とんとんと頭を指で叩いて「ここ」と笑う土方。
その笑顔を軽く睨んでから、2人は肩をすくめた。
「どうやら」
「そのようで」
殺気を簡単に削がれた総司と新八は、あの夜の斉藤の顔を思い浮かべていた。
風流ですね、と呟いた涼しい目元に。
全員を殺すつもりの殺気が宿っていた事を。




総司と新八が去った後の部屋に、斉藤がやってきたのはわざとだろう。
立ち去る2人の背中を見ながら、ご苦労と労う土方に彼は笑った。
「私があの2人を斬っていたら、どうしました」
今日は暑いね、というくらいに軽く呟かれた問いに。
「芹沢に斬られるよりましだろ」
結局2人とも生きて返ってきたし。
くくっと笑う土方に、斉藤はやれやれと小さく吐息を付いた。
自分も変わり者かも知れないが。
この人には及ばないよ、と。







□ブラウザバックプリーズ□

2008.6.9☆来夢

笹の葉揺れる水面の酔い夢




実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。