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目の前の風景が、ゆっくりと流れていく。 耳に届く声も、どこか遠く。 体が羽のように、軽く、舞い上がる気がした。 ああ、今日の空はこんなにも、青い… それが、土方歳三の見た、最期の空だった。 鉄には、判らない。 人はどうしたら、あんなに強くなれるのだろう。 新選組に入って彼は思った。 新選組には様々な男達がいた。 十人十色とはこうゆうことかと、そう納得するほどに。 女が好きなもの、家族のために闘うもの、他に居場所の無いもの、金の為だけにたたかうもの、悩み苦しみ葛藤するもの。それは実に様々だった。 きっと新選組がなかったら、会うことも無かっただろう男達だ。 世の中にはこれほどに様々な人々がいる。 そんな彼らに共通する事。 それは、死を、真正面から見つめていたことだった。 鉄は、自分もああなれるだろうかと思った。 兄が逃げた時、自分もできたはずなのに…鉄は逃げなかった。 兄が逃げた理由は判っている。 新選組にいる事は、死と背中合わせだということだと。 戦局が幕府不利に、時の勢いが倒幕側に向いている事はよくわかっていた。 それでも、鉄は逃げなかった。 土方でさえ、そんな鉄に首を傾げたものだ。 何故、ここにいる? 鉄は、少しでもあの男達に近づきたかった。 憧れと表現するのが一番だろう。 死から逃げない男達。 それは、自分から逃げない事を意味している。 俺は男だ。 そして武士だ。 土方は言ってくれた。 『お前は立派な漢だ』と。 だから…鉄は走っていた。 崖っぷちの函館の地から、土方が用意してくれた道を走り…江戸へ。 いや、土方の故郷へ。 鉄は薄汚れていた。 明治に変わった江戸の町は、少しの間に随分と様変わりしていた。 そこはもう、戦など終わったかのような表情を見せている。 今の自分とこの町と、別世界のもののようだ。 だが、どうでもいい。 どんな事をしても。 どんな思いをしても、この命令は必ず果たす。 それが出来なければ、死んでも彼らに会わす顏がない。 自分もまた、あの男達の仲間だったと胸を張りたいのだ。 時代の敗者になろうとも、この胸に刻んだ誓いを裏切ったりしない。 自分を信じてくれた、土方の為にも走るのだ。 どんなに町が変わろうとも、男達がいた事を証明する為に。 原田も井上も、野村も、いたのだ。 確かに、存在していたのだ。 綺麗になった町を走る自分は、どんどんと汚れていく。 町の本質は変わっていないのだ。 人の本質も変わらない。 副長の声がする。 局長の死に耐え、沖田の死に耐え、あの人は自分の死にも耐えようとしている。 その姿の…何と美しいことか。 あの人の目に、この町はどんな風に映るだろう。 鉄は、預かっていた土方の写真を、そっと取りだして見た。 副長、教えて下さい。 この国は、どんな風に見えていますか。 あなたの声が、聞きたい。 鉄は、道行く人々の視線から隠れるようにして、唇を噛みしめた。 眼前に迫る死に、歯が震えてしまう。 でも、あなた達は睨んでいたんですよね。 死を、敵を、正面を。 あなたの見ていた世界が知りたい、副長…。 奇跡のような、時間だった。 あっという間に違う国のようになってしまったが、確かに自分たちはここにいたのだ。 なぜ人は、変わってしまうのだろう。 あれほどに熱い時間を経て、今ここに立つ自分は、あの頃の自分とは違うものになってしまっている。 近藤も、土方も、総司も、そして左之も… 変わっていただろうか。 新八はずっと、考えていた。 過去が変わる事をどれ程祈っても、それは叶わない。 なのになぜ、人は変わるのだろう。 変わってしまうのだろう。 変わりたくないと思っていても、変わらざるをえない自分。 彼らはきっと、変われなかった。 この変わってしまった国で、生きられなかったのだ。 水が変わったら死んでしまう、魚のように。 俺達は滅ぶために闘ったわけじゃない。 生きていく為の闘いだった。 自分たちが自分たちらしく生きる為の、その世界をつくる闘い。 それに負けたのだから、死が当然か。 もしくは、別の誰かが作った世界に、適応していくしかない。 いっそこの町を否定して、死を選ぼうかとも思った。 だが、出来なかった。 死など、恐れていないと思っていたのに。 いざとなると、死ねないものだ。 それとも、死ぬなと仲間達が止めているのだろうか。 いや、それは都合のいい考えだろう。 あの時代、今はないあの町で、闘っていた自分たちの魂は美しかった。 そして、美しいままであろうとして、死んでいった。 新八は唇を噛みしめる。 自分は、汚れてしまった。 こんな自分を見たら、やつらは何て言うだろう…。 独りぼっちの町で、新八は目を固く瞑った。 お前らの声が、聞きたい…。 空は変わらない。 見上げると、あの熱い時代の空がそこに広がっている。 この空を、島田や斎藤や永倉も見上げている事だろう。 相馬はぼんやりと思っていた。 あの壮絶な戦争を経て、自分は今生きている。 そして空を見上ている。 死のうと思った。 けどしなかった。 それは、悔しかったからだ。 あのまま負けて、敵の思うがままに悪者に仕立てられ。 敗者だとこれ以上無いほどに思い知らされても、過去まで塗り替えられてたまるものか。 それだけは、死んでいったものたちの為にも許せない。 だから、生きた。 自分たちの死が、汚されない事を確認するために。 相馬の瞼に、土方の横顔が浮かび上がる。 いつも前を見据えていた土方。 決して後ろを振り返る事などしなかった。 その背中をいつも見つめていた。 いつまでも見つめていた。 ずっと見つめていたかったのだ。 だが、その背中がふいに消えた瞬間から、相馬の苦悩は始まった。 それは、命がけで闘っている時よりも辛い時間の始まり。 生きているのに、安全な場所にいるのに、辛い…。 副長、自分は生き残りました。 そして、この手で決着を付けようと思っています。 でも…間違っているでしょうか。 それは未練でしょうか。 生への、この国への、成し遂げられなかった国への…未練でしょうか。 あなたに近づきたかった。 それは、永遠に出来ない事なのでしょうか。 空は青い。 そしてどこまでも変わらない。 土方は最期の青に、呟いていた。 「美しい…」 大地ではこんなに汚れていても、空はいつまでも美しい。 この空の下で死ねるのか。 不思議に苦しみはなかった。 そして、ふいに仲間達の姿が見えた。 今ここにいるはずも無い、仲間達の姿を。 今はもう、いない仲間達の姿を。 土方はふっと微笑むと、最期の言葉を口にした。 「お前らに会えて、良かった」 後悔の無い人生はないだろう。 だが、仲間達との出会いに後悔など無い。 会えて良かった。 心から思う。 会えて良かった。 鉄は、土方の見た世界を求め、西南戦争へ赴き…そして果てた。 その瞳が最期に見た世界は、やはり青かっただろうか。 新八は、変わりゆく町の中で、生き続けた。 いつまでも変わらない青空を見上げ、彼らを思い続けた。 相馬は、戦争の真の終結を迎えて、腹を切った。 そうすることで、最期に土方に近づこうと試みたのだ。 それぞれが、戦い続けた人生だった。 晴れたら、空を見上げてみよう。 そこに、彼らの見た世界が広がっている。 それはいつまでも変わらない。 誰もが見上げた、変わらない奇跡の青だから。 |
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