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海に沈む。 もう無くなっていたはずの意識が、波に漂う。 ああ、何て… 何て、安らかなんだろうか。 うっすらと開いた瞼に、殺風景な天井が映った。 体は重たく動かなかったが、不思議と苦痛は感じなかった。 というよりも、体の感覚自体が重たい以外の何もなかったのである。 死が、ひたひたと歩み寄る気配がしていた。 後に鳥羽伏見の戦いと呼ばれる戦で、井上源三郎が果て。 同じ場所で山崎烝も重症を負っていた。 生きているのが不思議なのかも知れない。 そう、山崎はぼんやりと変化の無い天井をじっと見つめ続けた。 …と、そこに、白い顏がにょきっと現れる。 「…良かった、目覚めてくれましたね」 「………お…きた…さん」 かすれた声でやっと答えると、沖田の顔がニッと歪むのがわかった。 かなりやつれ細った頬に、疲れの色が見える。 「もう、お話できないのかと、思ってましたよ」 そう微笑む沖田の声もまた、力ない。 お互いにお互いの命の灯が消えかかっている事は、判っていたのかもしれない。 沖田の説明で、山崎は初めて自分が船の中にいる事を知った。 近藤もまた、この船にいるという。 起き上がれない無礼を詫びると、沖田は山崎の枕元に腰掛けて笑った。 「戦えなかった私には、皆さんに詫びる言葉もない」 労咳の為に戦う力を失い自嘲気味に返事をした沖田に、ふと、山崎は土方の姿を求めた。 今のこの沖田の傍らに、土方を置いてやりたい気分になったのだ。 いや、もしかしたら自分自身の傍らにこそ、土方にいて欲しかったのかも知れない。 「…副長は…?」 声を振り絞って尋ねる。 「今、近藤先生のところにいますよ」 「この…船に?」 頷く沖田に、山崎は思わず微笑を返していた。 その笑顔を見て、沖田は不思議そうに首を傾げたが、山崎は気にしない。 「最期に…お顔が見たい」 小さく呟いた言葉に、沖田は納得したように頷いてくれた。 最期という言葉が、本当に今生の最期を指す事は判っていたからだ。 「呼んできましょう」 船の揺れに壁に手をつきながら、沖田が立ち上がる。 それを見て山崎は初めて、船の揺れを意識した。…が、彼の体はすでにその揺れをも探知しなくなっている。 首を動かすことも出来ず視線だけで姿を追った山崎に、沖田が少し逡巡してから振り返り尋ねた。 「…後悔は、してませんか?」 白い首筋が、山崎の目に映る。 悲しい血を吐く、細い喉。 「何を、後悔する事がありましょう」 心の底からの言葉が出た。 もう、必要の無い言葉は出てこないのかもしれない。 沖田が何を「後悔してないか」と訊いたのかは、知らない。 が、山崎は何一つとして後悔をしていない。 少なくとも、新選組に入り、そして戦ってきた事。その中に後悔という言葉など皆無だった。 後悔するくらいなら、最初から新選組になど入ってはいなかった。 「…良かった」 沖田は笑った。 そして、「私もなんですよ」と呟いて、山崎の視界から消えていった。 視界を広げる事も移動する事も出来ない山崎にとっては、沖田がどこにどう向かったかはわからない。 ただ、それが山崎が沖田総司という男を見た、最後だった。 足音がする。 監察という仕事をしていた事もあり、足音には敏感だ。 どたどたと、乱暴の様で実はそうではない、実に神経質な足音だ。 この足音の主を山崎は知っている。 部屋に、誰かが入ってくる気配がした。 その気配でさえ、誰のものか判る。 「…土方…副長」 「山崎…!」 想像した通りの人の姿が、山崎の視界に飛び込んできた。 その顏を見ただけで、涙が溢れてきそうになる。 「…ふく…ちょ…」 「ここにいる」 動かない山崎の手に、暖かな土方の手が添えられた。 昔…昔といっても酷く最近の事にも感じるし、事実そうだったかもしれない。京で人斬り集団と呼ばれていた、池田屋等で活躍していた時期からは考えられない事だ。 土方が、仲間の手を握るなど。 涙で歪みそうになる視界に、山崎は必死に土方の姿を求めた。 少しでも長く、少しでもはっきりと、その姿を留めておきたかったのだ。 「山崎…すまないっ」 土方は真剣な眼差しで山崎を見つめていた。 だが、その紡がれた言葉は判らない。 「…何が…でしょう」 「お前を…こんな目に…」 土方は握った山崎の手を持ち上げて、そこに額を付けた。 まるで、仏に祈る姿のようだ。 「あなたのせいではありません」 クスッと、自然と沸き上がってきた笑みと共に山崎が呟くと、土方が僅かに頭を振った。 「俺は、間違っていたのか。源さんも死に、お前もこうして横たわる今、山南さんが言いたかった事はこうゆう事なのかと思い始めている…」 その土方の言葉に、山崎は山南という、ここにはもちろんいるはずのない人の姿を見ていた。 もう一人の副長。 仏の山南。 本当の仏となった今、あの人がどんな顔をしているのかは判らない。 だが、山崎は土方が苦しんでいる事だけは判った。 この人は、仲間の傷ついた姿を見て、一人で責任をしょい込もうとしている。それは、近藤を庇う意味でもあるのだろうが、そう思うことで自らを奮い立たせているのかもしれない。 土方のやり方を、山南は批判していた。 こうなる事を山南が予見していた? それは無いだろう。 世の中のうねりは大きく、土方一人の判断でどうこうなる次元の話ではない。 「私は、副長を、信じています」 「…山崎」 「副長が正しいとか、正しくないとかはわかりません。ただ、私は、あなたを信じています」 必死に声を紡ぐ山崎を、土方はじっと見つめた。 そんな土方に、山崎は断言した。 「私は、あたなを信じてきて、良かった」 沖田にも答えた、後悔なんてしていないと。 沖田はきっと、これが言いたかったのかも知れない。 -土方さんを責めないで- 責めたりなど、するものか。 「だが」 土方は苦しんでいる。 「だが、信じてくれたお前は今、こうして横たわっている。俺が動けるのに、お前が…」 いつになく土方は多弁だった。 それも全ては、山崎の命の残りを指し示すかのようでもある。 語りきらねば、時間は迫っている、と。 「人は…信じるものの為になら、死ねます。それほどまでに信じられるものがあるという事は…幸せな事だとは、思いませんか…副長?」 山崎の言葉に、土方は少し目を丸くした。 握りしめた山崎の手をまだ離そうとはせず、土方は呆けたように呟いた。 「………幸せ…だったか…」 「とても」 笑って見せた。 嘘は無い。 こんなに幸せな男は、他にいるだろうか? 何かをしたいと思っていた時、この情熱の男に出会った。 それは衝撃的な出会いとしか言い様がない。 出会って、目を見た瞬間に、胸に稲妻が走ったような衝撃を受けたのだ。 この男…土方の情熱に、嘘はない。 それがどんなに厳しく苛烈を極めようとも、己を貫いた信念に嘘の無い男。 そんな男に出会えて、共に働ける事になった時、それまで感じたことの無いような充実感を覚えたものだ。 目立たなくても良い。 人に褒められなくても良い。 信じると決めたこの人が望む事が出来るのなら、それで良かった。 何の為でもない。 自分が信じられる男に出会い、その信じる男の為に死ねるのならば。 思いを、全うできたとは言えまいか? 微笑む山崎を見つめながら、土方の瞳にうっすらと涙が浮いてくる。 泣くまいと努力しているのだろう、唇も僅かに震えていた。 「あなたにお会いできて…良かった」 「山崎!」 ぎゅっと、手を握る力が強まる。 その瞬間、つぅ…と土方の頬を一筋の涙が伝っていた。 その流れを見て、山崎はなんて美しい涙かと思った。 自分の為に流される涙がある事自体が、有り難く思える。それが土方が流すものなら尚更だ。 私の為に泣いてくれるのですか。 「一つ…お願いが…」 「何だ!?」 山崎の双眸からも、今や涙が止めどなく流れ始めていた。 もう止められない。 視界がどんなに歪んでしまうとしても、止める事は出来ない流れ。それはまるで、今の時代のようでもある。 「言え!何だ山崎!? 何だっ!?」 叫ぶ土方の涙が、山崎の頬に落ちた。 暖かい、涙が。 「忘れないで下さい」 短い言葉だったが、今の山崎の願い全てだった。 土方が頷く。 「当たり前だ」 誰が忘れるものか…! 「記憶の中に生きられるのなら…生きてきた…甲斐が…あったと、いう、ものです…」 土方の声を、山崎は仏の言葉の様に聴いていた。 ありがとうございます。 そう思いながら。 ありがとうございました。 そう思いながら。 山崎の呼吸が…止まろうとしていた。 「山崎!」 はい。 「山崎!」 はい、私はここに。 「山崎!!!!」 今、私の人生が、様々な人の人生の一部となる。 山崎が、深淵なる闇の底に沈んでいった。 苦しくはない。 つらくはない。 出会えて良かった。 後悔などしていない。 出来る事ならば。 再び出会いたい。 「山崎」 そう呼ばれたならば。 「はい」 その笑顔は、出会った全ての人の記憶に残る。 山崎烝は1月、富士山丸で逝った。 |
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