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しとしとと雨が降る。 冬の雨は時にみぞれを混じらせて、京都の町を冷やしていく。 空から落ちるその残酷な飛礫に曝されながら、新八は一人門の向こうを見つめていた。 ある日、花街の片隅で老婆が言った言葉を、左之はずっと気にしていた。 赤く染まる花街の夜空に不似合いな白い色を供した提灯。 その提灯を持つ手は、その人の得た年の数を感じさせた。 不気味な老婆。 「お前さん方は…見えてないないねぇ」 その京なまりの無い言葉に、ふと屯所へと帰る途中の新八と左之の足が止まった。 金さえあれば泊まっていきたいが、そうもいかない二人はその老婆に目を止めると、ちらっとお互いの顏を見やった。 「何だよ婆さん、俺達に何か用か?」 どうせ時間はある…と左之がひょいひょいと老婆に近寄った。 が、その老婆はするっと左之が近寄った分だけ、背後に延びる暗い路地に後ずさる。 左之がちょっと不審気に顏を傾げる隣に、新八も歩み寄る。 「見えてない見えてない」 ひひひ…と笑う老婆の歯が欠けている。 「何が見えてないんだい?」 新八がつまらなそうに訪ねた。 いつも眠たそうな目が、今日は更に重く落ちかけている。 逆にいつもばちっと目の開いた左之は、新八の質問に答えるのかと老婆を見やった。 不思議な老婆。 その口がひひっと笑った形で語った。 「お前さん方には流れが見えとらん」 「…流れ?」 「そう…」と老婆は提灯を持つのとは逆の手を目の高さまで挙げた。 「この手に感じる風がどちらから吹いておるのか…見えとらんだろう?」 ちょっと頭が危ないんじゃないか…と呆れた顏で左之が老婆を見る。 だが新八は気にせずに重ねて尋ねた。 「婆さんには見えていると?」 「皆、見えとる。見えとらんのはお前らだけじゃ」 老婆の口が、今度はニヤリと歪んだ。 その笑いにつられるように、新八も口元を歪ませる。 左之が「何がおかしい…」と新八に言おうとした瞬間…。 「!!!」 いきなり新八が大刀を抜き、老婆を一払いした。 ヒュンっと風を切った音に左之が驚いて老婆を見る。 新八の踏み込みは十分で、老婆の動きなら避ける事は不可能なはずだ。 不可能なはずなのに…。 「………ちっ…」 新八がかちゃんと刀を収める向こうに、まだ笑みを浮かべる老婆が佇んでいた。 不敵な老婆。 驚いている左之に、新八は「行こう」と小さく促した。 老婆はまだそこに佇み続けている。 腕を引く新八に誘われそこを離れる左之は、その姿を遠ざかり見えなくなるギリギリまで視界に捕らえていた。 「そりゃ物の怪じゃな」 しとしととゆっくりと降りだした雨に、縁側で退屈そうにお茶を飲む井上は断言した。 その傍らでは新八が柱に寄りかかり目を瞑っていて、左之はそれを横目で見ながら井上に昨晩の不審な老婆の事を語っていたのである。 「物の怪って…ちゃんと足があったぜ?」 「足がある物の怪もおるじゃろう」 「……」 眉間に皴を寄せる左之。 新八は黙って目を瞑っているが、眠ってはいない。 「じゃあ、言われた言葉の意味は?」 物の怪という回答に不満そうな左之をちらりと一瞥して、井上は雨空を見上げながら言った。 「お前さんの心の底」 その言葉に目を丸くする左之の背後で、新八が静かに目を開いた。 左之は一人考える。 心の底と、井上は言った。 左之は井上の言葉は信じる事にしている。それは今までの経験上、彼が無駄な事を言った事もなければ、的外れで余計な事を言った事も無いからだ。 井上を信用している。 だからこそ、考える。 「俺の心の底に、「見えない流れ」がある…?」 呟く左之の視界に、ふいに伊東参謀が映りこんだのはその時だった。 新八も一人考えていた。 老婆の事、その言葉の意味、あそこに現れた意味… 部屋で一人寝ころんでいた新八の耳に、わずかな気配が届く。それは部屋の前で止まり、いきなり障子を開いた。 「……生きてるか?」 「…何ですかね?」 突然現れた副長の土方に、新八はゆっくりと上体を起こしながら返した。 土方は後ろ手に障子を閉めると、入り口付近に立ったまま新八を見下ろす。その態度はまるで、新八を警戒しているようでもあるし、廊下で聞き耳を立てる輩を警戒してるようでもある。 「お前も、文学を学ぶのか?」 「………」 土方は真顔だ。 冗談を言う男でもない。…今や。 文学…伊東の事か、と新八は首を横に振った。 それを見た土方の眉が少し上がったが、それよりも新八には気になる部分があった。 「…俺…も?」 「左之が習いたがっているようだったから、お前もか、と思ってな」 左之が伊東派に入った…? 新八の表情を見て土方は満足したのか、少し口元を歪ませて障子に手をかけた。 「邪魔したな」 そう呟く背中を新八の声が追う。 「本当に思ったんですかね、俺がそうなる…と?」 見上げる新八の視線を横顔で見返しながら、土方は言った。 「お前なら局長か俺の首を取りに来る」 「…その方が早いですからね」 「そうゆう男だって事は判ってるつもりさ」 土方は現れた時と同様に、唐突に去っていった。 その姿が消えた直後、新八の顔に浮かんだ表情を知る由も無く。 夕餉の後で、左之が新八を呼び止めた。 その顏には笑顔。 「ちょっと良いかな?」 そう笑いかける左之の向こうに、平助と伊東の姿を垣間見た気がして、新八は黙って部屋に向かった。 その後を左之が戸惑ったように追いかける。 「ぱ、ぱっつぁん?」 平助はもともと試衛館仲間であったが、今では伊東一派に属していた。それがどんな意味を持つのかといえば、あの土方を敵に回すという事になる。 新八の中で、伊東と土方の強さはどんぐり状態だ。 だが、伊東よりも土方の方が恐ろしいとは思っている。 何故か。 土方は…必ず行動する男だからだ。 足早に部屋に戻る新八の後を追って左之も部屋に転がり込む。 「ちょっと待ってくれって言ってるのに」 「…何だ?」 「あのさ、俺…この間の老婆の件を伊東参謀に話してみたんだ。ほら、源さんが言ってた言葉も気になって…でさ」 やっぱりな、と新八は思った。 「伊東参謀に、今の副長の危うさと、それを危惧する本能の優秀さでも説かれたか?」 「………何で判るんだよ?」 新八の言葉に左之が素直に驚く。 この素直さが左之の魅力であり弱点でもあると、新八は溜息をつきながら思った。 あの老婆は、伊東の指しがねだ。 「俺は伊東参謀は好かん」 「ちょっ…」 「伊東参謀と懇意になりたいのなら、俺には話しかけてくれるな」 新八の声に、左之が信じられないという顏で黙った。 その驚きを隠そうともしない顏を新八も見つめる。 冷たい沈黙。 それから何も言わない新八に、左之は何か呟こうとして…俯いた。 そして、黙って部屋を出ていった。 静かに閉じた障子を見ながら、新八はしばらくそこに立ち尽くした。 左之が平助と話している。 その顏には笑顔。 そこに伊東も加わる。 笑顔笑顔の応酬を新八は黙って通り過ぎた。 一人、そこを通り過ぎて行った。 「危ないんじゃないか?」 小さく呟くのは斎藤。 新八はその言葉に黙って頷いた。 斎藤が言いたい事は判っている。 左之の事だ。 左之が土方の標的になるのに時間はかかるまい。平助でさえ標的にされている今、試衛館仲間という過去は使い物にならない。今の状況一つで、土方は牙をむくだろう。 新八は考えた。 ここ数日左之とは言葉を交していない。 あの口の立つ伊東に言いくるめられ、なおかつそばで平助が同意すれば…左之も信じ込んでしまうだろう。 伊東の指し示す道を。 その道の行く手にあるのがどんな結末かも見えないままに。 どうしたものか…と溜息をつく新八の袖を、斎藤が小さく引っ張った。 ある日、屯所で大騒ぎが起きた。 近ごろ屯所で姿を見かける事の少なくなった近藤が、顏に怒りを露にしている。平隊士等は足音一つにも気をつける有り様の状況を作り上げたのは…伊東と斎藤と…新八だった。 「花街に居続けとはっ!!!」 興奮して怒り心頭の近藤の傍らで、土方の目が冷たく光っている。 正月早々、伊東と斎藤と新八という揃いも揃った幹部の面々が、隊規を犯して花街に居続けを行ったのである。しかも悪びれる風もなく、堂々と帰屯した三人に近藤の怒りは収まりを見せない。 結局、謹慎処分が三人それぞれに下った。 謹慎が解けてからも、左之と新八の距離は離れたままだった。 そしてある日。 朝から降り続く雨を見上げる新八は、一人壬生寺に来ていた。 普段は滅多に来ない場所だが、沖田などは好んでここで子供たちと遊ぶことが多かった。 今はそんな元気な沖田の姿を見る事もめっきり少なくなっている。 新八は一人ぼんやりとそんな事を考えながら、壬生寺の境内から、門の向こうを見つめ続けていた。 恐らくそこから姿を見せるだろう相手を待ちながら。 それからしばらくして、やはり現れた想像通りの相手の姿に、新八は静かに笑った。 「よう」 そう声をかけると、同じように雨に打たれる相手の姿がうなだれたように揺れる。 しばらく口をきかなかっただけで、随分と違う人に見える…左之。 新八は返事を返さない彼に、黙って刀を抜いた。 きらりと雨に打たれて光る刀。 その残酷な鉄の刃に、左之が小さく声を出した。 「………土方さんが…」 「ああ」 新八は刀を構える。 だが、左之は自分の大刀に手をかけようとはしない。 「土方さんが言ったんだ」 「…ああ」 何を言われたかは、大体想像が付く。 だからこそ、こうして刀を抜いているのだ。 静かに刀を構える新八を、左之の情けなくうなだれる顏が見つめた。 「土方さんが、俺に、ぱっつぁんを斬れ…って」 「言うと思ってた」 そう応えると左之がますます情けなくなる。 「俺がぱっつぁんに勝てるはずもない。それは土方さんにも判ってるはずだ。…なのに、俺にぱっつぁんを斬れって事は…」 「俺もお前もいらねぇって事だ」 新八の言葉に、傷ついたような顔をする左之。 そんなまるで幼子のような彼に、新八は刀を向けたまま言った。 「何を今更傷つく? お前は伊東参謀を選んだんだろう? なら、土方さんに敵と思われる事は判りきっていたはずだ」 「…けど、土方さんはぱっつぁんまで…」 「俺はもともとあの人には好かれていないし、今回の一件もあったからな」 「それなら斎藤だって…!」 そう、新八が裁かれるなら、同様に斎藤も裁かれねばならない。 が、斎藤は裁かれない。何故なら斎藤は、土方にとって利用価値の高い男だから。 「…抜けよ」 新八は、左之に抜刀を促した。 雨が二人の間に振り続ける。 新八の言葉に、刀に手を向ける左之。 だがその手は刀に届く前に、力を失いだらりと下げられた。 「…出来ない」 「俺がお前を斬っても、俺は土方さんに始末されるだろう。なら、一思いにここで…とは思わないのか?」 左之は苦しそうに首を横に振った。 「ぱっつぁんを斬っても、俺は土方さんに…」 「だろうな」 ひょうひょうと言う新八に、左之は溜息をつくとその場にしゃがみ込んでしまった。 「あ〜〜〜〜〜〜っっ!!」 「……………」 そして突然叫び声を上げた左之に、新八は刀の背でとんとんと自分の肩を叩く。 雨が容赦なく二人を濡らしていく中で、左之がくしゃくしゃの顏で新八を見上げた。 眉はしかめられ、鼻は赤らみ、口元が歪んでいる。 泣いているのか。 「俺、土方さんが怖ぇ」 「……俺はずっと前から思ってるよ」 新八も左之と同じ目線になるようにしゃがみ込む。 対等になった相手に、左之は鼻を鳴らしながら先を促す。 「伊東さんは怖いか?」 「………怖くねぇ。あの人は…優しいよ」 「だが、それじゃあ生き残れねぇ」 老婆が言った。 見えていない、と。 だがそれは、伊東にも言える事なのだ。 伊東は判っていない。 土方という男の恐ろしさを。土方という男が仕切る新選組の恐ろしさを。 あの芝居がかった策略こそが、伊東の弱点なのだ。 土方は、芝居で誤魔化しきれる男ではない。 伊東の先は、無いだろう。 「俺達…どうなる?」 「さぁな」 不安そうな顏をする左之に、新八は本心から応えた。 だが土方に刃向かう為にと伊東と組むのは愚かだ。 「さて…」 そう呟く新八の目に、寺の門をくぐる斎藤の姿が映った。 彼はいつもの無表情のまま二人の元までゆっくり歩いてくると、しゃがみ込む二人を見下ろして言った。 「副長が、迎えに行けと」 あくまでも無表情に、二人に雨よけを寄越す斎藤。 その斎藤の無表情を見上げながら、左之と新八は顏を見合わせた。 そして… 「やっぱり敵わないな、あの人だけにゃ…」 やれやれと新八は立ち上がる。 そんな新八と斎藤を不安そうに見上げる左之に、斎藤が短く呟いた。 「風邪を引くと副長に怒られるぞ」 「ほら」 新八が手をさし伸ばす。 その手をしばらく見つめていた左之だったが…ゆっくりと、だがしっかりとその手を握り返した。 ぐいっと引っ張られて立ち上がる左之。 「さぁ、帰ろう」 斎藤はさっさと二人に背中を向けた。 「仲直りは終わった頃だと、副長が言ってたが…その通りだったな」 その斎藤の声に、新八と左之は再び顏を見合わせて…。 「逆らえねぇなぁ…」 と二人揃ってうなだれた。 後日、伊東一派が新選組からの離脱を表明した。 それがどんな結末に向かうのか、見えているものだけが、その先へ進むことを許されるのだ。 見誤ってはいけない。 時代の門は、そこかしこに開いているのだから。 |
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