|
雨が降ってきた、と空を見上げなくても判る。 足下に大きな黒い染みが、ぼつぼつと現れ始めたからだ。 どんどんと乾いた部分を押し潰して、繋がって広がって面積を広げていく輪っか。 湿った地面を蹴ると、泥が着物に跳ね返るのが判って悔しい。 ああ、せっかく洗ったばかりだというのに… ぼんやりそんな事を思いながら、足下ばかりを見ていた。 屯所までの道のりなら、もう頭だけではなくて体が覚えている。 小柄だと言われる体を小さく丸めて、相馬は走った。 早く帰られないと濡れてしまう。 いや、濡れる事だけならさほど困らないのだが、胸の中に抱えた荷物が気になるのだ。 最近元気がない局長への土産物…つい見かけて美味そうだから買ってしまった、まんじゅう。 主人が出来立てだと笑っていたから、6つも手にしてしまった。 暖かい内に持って帰って、局長にお茶と一緒に出してあげよう。 そう思っていたのに、この雨。 相馬は下げたままの頭で、体が真っすぐに走ろうというのを咄嗟に方向転換した。 左に折れて、竹やぶを突っ切ろう。 多少足は汚れるが、その方が屯所への近道になるし、空高く伸びた竹で雨がしのげるかもしれない。 「狐に化かされませんように」 つい、呟いてから、足を速めた。 別に狐が出ると聞いたわけでもないし、狐に化かされるのが怖いわけでもない。 そもそも狐なんて信じていない。 のだが。 時折ここを通りかかる度に聞こえる息遣い…の様なものがあったのだ。 塀越しにそれを感じて以来、何となく避けるようになった近道。 だが、この雨がそれを方針転換させた。 ザザザ、と雨が笹を打つ音が波の音の様に響く。足下に落ちる飛礫は確かに少なくなったが、それでも落ちてくるものが無いわけでもない。 ああ、急がなければ…と、ふっと頭上の緑の天井を見上げた時だった。 「…はぁっっ」 「っ!」 息遣い…というより吐息だろうか。 突然聞こえてきたそれに、相馬はビクッと身を竦めて足を止めてしまった。 恐る恐る当たりを伺うと、ザザザザっと体を中心に風が渦巻くのを感じた。 視界がぐるりと回ると、やはり耳には「はっはっ」という荒い吐息が雨風の音に混じって聞こえてくる。 「…………出たかな?」 腰の差料に手を伸ばそうとして、相馬は手を引っ込めた。 胸に入れたまんじゅうが落ちないように胸を軽く抑える仕草をすると、深呼吸をする。 狐相手に刀を抜いてどうするんだ、落ち着け! そう考えてから、少し地面を睨んだ。 …狐…なのか? 「……………」 早く走り抜けてしまえば良い、と頭では思うのだが、何故だか体が言う事を聞かない。 ぐっと根が張った様に地面に吸い付いてしまった自分の草履足を睨んで、相馬は唇を噛んだ。 俺は新選組隊士だぞ!? なのに、なのに…狐が怖いなんて… 「っくそ…」 ギリ…と噛みすぎた唇が白くなった時だった。 「うはぁっ!!!」 ザザザザザっという笹の擦れ合う音とは違う物音が、衝撃とともに目の前に転げ落ちてきたのである。 「うわぁっ!?」 思わず驚いて声をあげると、衝撃は相馬の足に当たって動きを止めた。 そう、それは竹やぶの中を転げ出てきたのである。 叫んだ拍子に上がってしまった足が、その衝撃主の頭にごつんと当たった。 「あ痛っ」 「えっ?」 人間の声に、あっと見下すと。 相手も目を丸くして相馬を見上げてきた。 目と目が合う。 そして、次の瞬間にはお互いを指さして叫んでいた。 「相馬!」 「野村!?」 「何だ、相馬じゃないか」 「お〜お〜よく転がったなぁ、野村〜」 呆気にとられて足下に転がっている野村を見つめていた相馬の耳に、聞いた事のある声が二つ飛び込む。 そっとそちらを伺い見ると、そこには着流し姿の原田と、こちらは袴を付けた永倉が。 新選組の大幹部である。 猫の様な目で永倉が小首を傾げて相馬を見ているのに気付いて、相馬は顔をカッと赤く染めた。 何となく気恥ずかしくなったからだ。 その傍らでは原田が転げた野村の泥だらけの姿に、豪快な笑い声を放っていた。 「な、何をなさって…」 「相撲」 地面に直接座り込んだ野村に、原田が面白がって泥をなすりつけている。それを眺めながら、永倉が疑問に簡潔に答えてくれた。この大幹部はよく原田とつるんでいるが、何を考えているのか今一判らない時がある。今みたいなのがそうだ。 「相撲…ですか?」 「ああ、野村が付き合えって言うから」 永倉が指さした先では、野村と原田が泥んこになって転げ回っている。 「……左之〜戻ったら風呂入れよ」 「付き合えよ、新八!」 呆れた様な永倉の声にも、原田は豪快に笑みを返す。 その指さした永倉の手を見ながら、相馬は案外と白くて細い指をしているのだな、と感じていた。 まるで土方副長の手みたいだ…と思っていると。 「お前も、新八っつぁんに勝とうなんざ、100年早いってんだよ!」 「100年も掛けてたら、副長をお守り出来ないじゃないですか!!」 原田に軽くあしらわれながらも、泥だらけの顔で反撃を試みている野村の声が、竹やぶに響いた。 その声に目を丸くした相馬と、叫んだ野村を交互に見て、永倉が笑った。 「相馬、あんまり腕強く抱くと、胸の包みが潰れるぞ」 「はっ」 指摘されて慌てて腕の力を緩めると、胸元から覗いていたまんじゅうを包んだ紙がカサカサと鳴った。 まるで窒息しかかっていたところで、急に呼吸が出来る様になったかのように。 「馬鹿、頑張りながら守れば良いんだろうがよ。新八っつぁん、行こうぜ〜」 「ああ」 腕を引っ張ってくる原田に頷きながら、永倉は少しだけ考える素振りをしてから相馬に言った。 「…幽霊の正体見たり枯れ尾花、だな、相馬」 ニッコリと、目を細めて永倉は笑った。 風呂はどうやら屯所ではなくて、妓のところで入る事にしたらしい大幹部2人が去った。 相馬は足下で泥だらけのまま寝転がってしまった野村に、一応尋ねてみた。 「…相撲、してたのか?」 「ああ。時々体術とか剣術とか…稽古してもらってるんだ」 泥がついた野村の顔に水滴が落ちて、その汚れを緩やかに落としていく。 もしかして…と野村はついでに尋ねた。 「今日が初めてじゃないのか?」 「あ〜もうどれくらいかな…結構経つかも。でも一度も勝てないんだよ、畜生〜」 うぎゃ〜〜っと足をばたつかせている野村に、相馬は深い溜息をついた。 そうか、永倉が言った意味が判ったぞ、と。 どうやらここ暫く感じていた怪しい気配は、野村と永倉・原田のものだったらしい。 何て事はない、狐は我が同士だった…というわけだ。 「…お前、それ何持ってるんだ?」 ふと気付くと、下から野村が相馬の胸元を凝視している。 先ほど、ついぎゅっと自分の腕で押し潰してしまったまんじゅうを取りだすと、相馬は野村に一つ手渡してやった。 泥のついた手を着物で擦ってから、それを受け取った野村は一口で全部を平らげてしまった。 「早いよ」 「美味いな」 同時に出た言葉に、お互いの顔を見合わせる。 少し間を置いてから、2人は口を開いた。 「副長の為に稽古してるのか?」 「このまんじゅう、誰に買ってきたんだ?」 お互いの疑問を同時に相手にぶつけてから、2人はぎこちなく黙った。 呼吸が奇妙に合ってしまっている。 コホン、と咳払いをしてから、相馬は残ったまんじゅうを見て説明した。 「局長に元気出して貰おうと思って、買ってきたんだよ」 「え、俺食っちゃって良かったのか?」 「うん、構わない」 慌てて口をぱくぱくさせた野村に、少し可笑しくなりながら相馬は手を振った。 別に使いを頼まれて買ったものではないのだ。 すると、今度は野村が咳払いをした。 「俺も、強くなって副長に頼れる奴がいて良かった…って思ってもらいたくて」 少し照れた様な顔になって、頭をぼりぼりと掻く野村の手が、自分の泥汚れに気付いてハッと引っ込められた。が、髪には既に泥がべったりとついている。 「そっか…俺は、局長を喜ばせる方法に、それは思いつかなかったな」 強い連中なら山といるのが新選組だ、と思っていたから。 そして、自分の特製は強さを極める事よりも、機微を見る事だ、と思っていたから。 そう頷く相馬に。 「俺も、副長にお茶菓子の一つも…なんて考えなかったなぁ」 よく考えれば土方は俳句を詠む。その時にお茶の一つ…お茶菓子の一つもあればと今更気付く。 自分の性格からして細かい気遣いよりも、豪快な力技が一番自然な方法だと思っていたからだ。 野村も頷くと、相馬に手を伸ばした。 上に向けられた手の平を見下して、相馬が首を傾げると。 「まんじゅう美味かったから、もう1個くれ」 ニカっと笑った狐の正体に、相馬は苦笑を漏らすと懐から素直に一つ差しだした。 「その代わり」 ちょこんと置いたまんじゅうに、野村がきょとんとした顔をするのを見ながら。 「今度は俺も稽古に混ぜてくれ」 にっと笑った相馬に、野村は大きく頷くのだった。 肩を揃えて歩く永倉が、ぼんやり空を見上げている事に気付いて、原田が首を傾げた。 「雨、止んできたか?」 「ああ、雲の流れが早いから…」 「何考えてるんだよ〜」 ちょいっと小脇を肘で小突くと、しなやかな体が着物を通して息づいているのが判る。 気紛れに付き合い始めた野村の稽古だが、原田は永倉が毎回飽きずに付き合っている事に途中で気付いた。 野村の納得がいくまで、淡々としながらも付き合う永倉。 一番組長の沖田が倒れている今、事実上一番・二番を仕切っているのはこの永倉である。 だが、そうなってから永倉はぼんやりする事が多くなった気がする。 昔なら「面倒だから嫌だ」と断っただろう野村の稽古も、最初から嫌と言わずに引き受けた。 何を考えているのやら…と思っていたから、尋ねてしまえと思った。 すると、永倉は空を見上げたまま、ちらりと笑った。 「雨が止むな〜って」 「そんなのは判ってるよ!そうじゃなくて…」 「だから、雨がそろそろ止むな、って…次の天気はどうなるんだろうなって」 言葉の途中で背後の竹やぶを振り返った永倉に、原田は「ああ」と理解した。 そうか、空の天気の事じゃない。 世の中の天気の事を言っていたのか。 「雷雨かもしれないぜ」 「そうだな…でも」 永倉は竹やぶの下の2人を思い浮かべて、そっと笑った。 「まだ、戦える」 雲が流れるより早く、時代は流れた。 それからそう遠くないところで、近藤が倒れ、土方は北の大地に立つ。 その時、もう永倉も原田もそこには居なかったが。 それぞれのやり方で戦場を選んだ中、野村と相馬は最後まで新選組だった。 その命尽きる瞬間まで。 |
|
|
|
実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。