|
暗い夜、街を鬼が跋扈する。 厚い雲に覆われた空の向こうで、僅かに見え隠れする面影の月が赤い。 吹く風がそら寒い、気配の死んだ空気だった。 斉藤は着流した着物の懐に滑らせていた手で、知らず自分の腹を撫でていた。 はたと気付くが、指に馴染む自分の肌が不思議と心地よい。 もしかしたら、指寂しいのかもしれない。求めているのは、妓の肌か…それとも、別の何かか。 数歩先を歩く永倉と沖田を見ると、彼らにそんな寂しさは無用の様だ。 かなり酔っている沖田が川に落ちないよう、永倉が必死に体を支えたり引っ張ったりしている。 珍しく3人で飲みに行った帰り道、永倉の「お前も手伝え」という趣旨の言葉を軽く聞き流して、斉藤はさらさらと流れる黒い川を見下した。 川面にぼうっと白い影が一筋揺らいでいる。それが自分自身の影だと気付くのに、そう時間は掛からない。 夜が深くなっていた。 「斉藤さんって、焦る事あるんですか?」 沖田がそう尋ねてきたのは、夕刻、斉藤が土方の部屋から出てきたところでだった。 巡察から戻って来た組長は、その巡察の内容を副長に報告し、何か問題があれば即座に組織が動く。怪しい気配があれば監察を飛ばし、不始末があれば処罰する。 沖田は斉藤の、帰ってきたばかりだというのに着崩れていない袴を引っ張って笑った。 「心が乱れないから、裾も乱れない。私なんて、しょっちゅうぐちゃぐちゃになってますよ」 「…あんたは、巡察前後に子供達と遊び過ぎだ」 斉藤は沖田の裾についた、子供の泥手形を指さして肩眉を上げた。 あまり表情を変えない斉藤の目技に口をすぼめ、沖田は自分の着物を見て「あちゃ〜」と声を上げた。 「あの子達は無心だから、私も手に負えないんですよ」 ぱたぱたと泥をはたくが、すっかり染み込んでしまっている部分は取れようもない。 笑う沖田の顔を無言で眺めながら、斉藤は少しだけ目の前の青年ー同い年のはずだがーを気味悪く思った。 この男は、敏感な子供を無心にさせる程同化する癖に、同じ空気で人を斬る。 「斉藤さん、今度一緒に遊びましょうよ」 「…ゴメンだな」 ニッコリと向けられた笑顔に手を振って、斉藤は彼に背を向けた。 泣く子と子供には勝てない、それが世の常だ。 どぼん。 斉藤が眺めていた川面が激しく揺れ、そこに映っていた白い影が掻き消された。 「あ〜ほら、だから言わんこっちゃない。お前弱い癖に飲みすぎなんだよ!頭冷やせ」 「…うへぇ〜…」 川べりにしゃがみ込んだ永倉が見下す先に、どうやら川に落ちたらしい沖田がずぶ濡れ状態で立ち上がっていた。せいぜいが膝の高さの川なのに、ご丁寧に頭から水を滴らせている。 「永倉さぁん、手ぬぐい…」 「手ぬぐいじゃ足りねぇよ。ほれ、早く帰らねぇと副長に殺されるぜ」 上がってこいと手を振る永倉を情けなさそうに見上げて、沖田は唸った。 「先に帰って遅れますって伝えて下さい。こんなんじゃ上手く歩けないや」 川の中に浸っていた袴を持ち上げると、ざば〜っと音を立てて水が滴る。沖田は自分でそれをうんざりと見ながら永倉に肩をすくめた。 「仕方ねぇなぁ…ひとっ走りしてきてやるから、着物なんて脱いじまえ。斉藤、悪いけど子守頼む」 「…子守?」 斉藤が眉をしかめると、永倉はくしゃっと顔を歪めて笑い、手を顔の前に立てた。 「着替え持ってくる。秋とはいえ流石にずぶ濡れじゃ風邪を引くからな」 小声でそう囁くと、永倉は酒が入っている事など微塵も感じさせない足取りで走り去った。 斉藤はちらり、と沖田を見下す。 沖田もちらり、と斉藤を見上げていた。 「刀までびしょ濡れだぁ」 どこかろれつがはっきりしない口調で、沖田は情けなさそうに呻いた。 「着物は脱いだ方が良いんじゃないか。着たままだと冷える」 「え〜…ここで素っ裸は嫌ですよぉ〜」 川から上がった地面に座り込み、沖田は子供のように足をばたつかせた。濡れていた袴に土がべったりと付くのを見て、斉藤は他人事ながら頭が痛くなる。 「…水が飛ぶからやめてくれ」 「動いたら乾きますかねぇ」 言葉がかぶった。 お互いにお互いが言った言葉を吟味して、そして斉藤は眉をしかめて、沖田はにっこりと笑った。 悪戯っ子の本領発揮だ。 「いっちょ仕合しましょうよ、斉藤さん!」 「仕合って…あんた酔いすぎだ。足下がおぼつかない」 声は元気だが、立ち上がった足下が落ち着かないの沖田を指さして斉藤が首を横に振る。 しかしキラキラと目を輝かせた沖田は、まったく構いませんとばかりに刀を抜き放ったのである。 水の滴る刀を、だが。 「斉藤さんと邪魔者無しで立ちあってみたかったんですよねぇ…いざ!」 酔っ払いながらも天然理心流平正眼を構える沖田に、斉藤は心の底から溜息をついた。 せっかくの酒が、どこかへ飛んでいきそうだった。 しかし、この無邪気な子供が酒まで入っている状態で人の言う事なんて聴くはずもないし、逆に言えばそれほどの酒が入った上ならまともな勝負など出来ないだろう。 斉藤はそう考え、仕方なしに刀を抜いた。 副長にばれたら…切腹かな、とも考えながら。 ぽたぽたと、水を滴らせたままで沖田が刀を構える。 暗い空の下でぼんやりと霞むように佇む彼を見つめ、斉藤もまた軽く刀を構えた。 斉藤はいつだってそうやって軽く構える。無駄な力は体の動きを殺し、果てには命まで殺す。 「いざ」 「勝負」 にやり。 酒の入った赤い顔を晒したまま、総司が笑った。 子供の様な、無邪気な笑顔で。 その一瞬、斉藤は小さく息を飲んだ。 本能的で体を後退させると、ザザザッと草履が地面をこする音が響き埃が立つ。 目の前には沖田の笑顔。 斉藤は彼と距離を取りながら、ちらりと自分の胸元を覗いた。 はらりと切れた着物の下から見える素肌に、赤い筋が一本走っている。…斬られたのだ。 「…っ」 たった一瞬で自分の懐に刀を飛び込ませた沖田を見れば、彼は刀をぽんぽんと叩きながら変わらぬ笑顔。 「あれ〜惜しいなぁ、薄皮一枚しか届かなかったや。やっぱり斉藤さんは強いなぁ」 他の人なら串刺しに出来たのに。 言外にそう語っているのが判って、斉藤は密かに戦慄した。 「…本当に酔っぱらってるんだろうな、あんた」 「そりゃ、あんだけ飲みましたし〜」 えへへっと手を振る沖田を斉藤は静かに睨む。 酔っていて、そして濡れた着物を着たままで、今の動きが出来るのか。 「恐ろしい男だ」 斉藤はそう呟いた。 闇夜に時折響くキン!という音と、地をこする音。 時折混じる水音が人の笑い声にも聞こえて、通る夜風もその場所を遠慮する雰囲気を醸し出していた。 「…てやっ!」 鋭く迫る沖田の3段突きを辛うじてかわし、斉藤は勢いをつけて足を踏みだす。 「とうっ!」 胴をなぎ払おうとする刃を、その細身からは想像できない力で防ぎ、沖田は軽やかに身を引いた。 その着物が水を含んでいる等と、知らずに見た者なら想像もつかない動きで。 「斉藤さん、袴」 沖田が強引に押し戻してきた刀を近づけながら、ちらりと斉藤の足下を見た。 「乱れてますよ」 水の気配を漂わせながら、斉藤に足払いをかける沖田。 わざわざ意識を下に向けられながら、足払いをよける瞬間に上半身が空いてしまった斉藤に沖田の刀が走った。 「っ!!」 くっと小さく唸りながら顔をのけ反らせる様にした斉藤。 かわした、と思った瞬間に、顎に熱が集まるのが判った。 「……」 軽く口を開けると傷がそんなには深く無い事が判る。 だが、顎から溢れ咽を伝う血の熱さは、嫌でも皮膚を直に震わせた。 「少しは、焦ってくれてますか?」 にっこりと微笑む沖田からは殺気は微塵も漂っては来ない。むしろ酒に酔い川に冷やされた体からは、冷気が上がっているかのようだ。だが、そんな状態でこの剣を出す。 斉藤は今更ながらこの沖田という男について、溜息を漏らした。 酔っているからためらい無く斬り掛かってこられるのか、それとも素で殺し合いを楽しもうとしているのか。それすらも判別つかせない青年に、斉藤は一つの覚悟をした。 「そうだな、焦ってるかもしれん…」 「わぁ、本当ですか?」 「だから…許せよ」 きゃっきゃっと跳ねて喜ぶ沖田に、斉藤も少しだけ笑って。 刀を、利き腕を左に変えて握り直した。 自分本来の構えを取ったのである。 殺す気で。 沖田の顔からも笑顔が消えた。 斉藤の構えの変化に気付き、彼も改めて刀を握り直すとぴんと背筋を張った姿勢を取る。 お互いに、冗談や手抜き無しの本気の構えで。 格下の浪士程度ならいざ知らず、自分と同じ程の力量のものと本気の構えを取りあえばどうなるか。 2人にはよく判っている。 一撃必殺。 勝負は本の一瞬で付く。 こんな所で新選組幹部が本気の勝負などすれば、勝っても局中法度で切腹である。 だが、沖田は最初からその気だったのだろうし、今は斉藤もその気だ。 「私たち、酔ってますよね」 「ああ、酔ってるな」 酒が入っているから、こんな酔狂な勝負を買ってしまったのだ。 そうあっさりと命を割り切る事にして、2人は呼吸を調えた。 勝負は一瞬。 「いざ」 「勝負!」 2人の足が、決意の一歩を踏み込んだ。 キン!と刃が光った、その一瞬。 「馬鹿野郎ども!!!」 ドカ!バキ!と研ぎ澄まされていた2人の視界に、激しい火花の様な物が散った。 そして、頭頂部に鈍い痛み。 「…っつぅ?」 思わず刀を下げて頭を抑えると、斉藤の目の前にはしゃがみ込んで頭を抱えている沖田がいた。 どうやら同じ衝撃を味わったらしいが…と視界を転じれば、そこには呆れ返った顔をしている永倉が。 「総司!何でまだ着物脱いでねぇんだ、風邪引くだろう!!」 彼は持ってきてくれたらしい着替えと手ぬぐいの山を、しゃがむ沖田に投げつけてから斉藤を睨む。 「斉藤!俺はお前に子守を頼んだはずだぞ!? 何でガキの遊びに付きあってる!」 「…いや、ガキの遊びってわけでも…」 「もう一発殴ってやろうか?」 ぼそっと呟いた斉藤に、永倉が拳を作って笑ってくれた。どうやら今の火花は永倉に殴られたものらしい。 斉藤はふるふると力なく顔を振った。 「ったく!お前も毎回毎回学習しろ!!」 しゃがむ沖田の頭を永倉が手ぬぐいでわしゃわしゃと拭く。時折拳骨が飛ぶのを見ながら、斉藤はふと首を傾げた。 「毎回…?」 言うと永倉が冷たい視線を向けて睨んでくる。 「こいつはな、酔っぱらうたんびにこうやって勝負をふっかけてくるんだよ。散々付きあわされても、翌日にはケロリと忘れてやがるんだから」 「…え、じゃあ、酔っ払いの癖…?」 さっきのあの剣が酔っ払いの悪い癖だというのか? 斉藤が珍しく目を丸くしたのを見て、永倉は溜息をついた。 「俺も最初、殺されそうになった」 苦々しく彼が呟いたところで、沖田の体がコテンと横に倒れる。 永倉と2人で揃って顔を覗き込むと。 「ぐ〜〜〜〜〜〜〜〜」 完全に寝込んでいる沖田の健やかな寝顔が拝めてしまった。 呆れて漸く刀を収めた斉藤に、永倉はやれやれと沖田を抱え上げながら唸る。 「明日になったら、何もかも忘れてるぜ」 保証する、と言われても、斉藤は全く嬉しくなかった。 沖田を背負い夜道を行く永倉を眺め、斉藤は自分の手の平を開いてみた。 何か寂しさを覚えていた指が、今はじんと血が通って熱を覚えている。顎はじくじく痛むし、着物は繕わねばならない…いや、捨てるしかないか。 「…はぁ」 斉藤は乱れた髪を払いながら、ぼんやり浮かぶ雲の向こうの月を睨んだ。 とんでもない事をしでかす所だった。 泣く子と子供には勝てないと判っていたはずなのに。 「あの…ガキ」 心に浮かぶ沖田に毒づくと、さぁっと雲が慌てて月を隠してしまった。 まるで、斉藤から隠れるようにして。 翌日。 やはり沖田は全てを綺麗さっぱり忘れ去り、笑顔で斉藤に懐いてきた。 「斉藤さん、一緒に遊びましょうよ」 その笑顔に斉藤は思う。 この笑顔で斬られるのは、堪らないな、と。 「ゴメンだな」 |
|
|
|
実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。