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赤い太陽が西の空に沈むのを、左之は黙って見つめていた。 黒い影と濃い灰色の雲が、赤い残滓を遮る。 京の風が、ゆるりと袖を揺らしても涼しさはほど遠く。 どこかでざわざわと肌をさざめかすだけの匂いに、左之は手の甲で額を拭った。 さしてかいてない汗を払うと、下ろした手の向こうに黒にも見える衣がはためく。 「新八」 呟くと、自然と笑みが零れた。 池田屋事変後、新選組では大規模な組織改革が行われた。 それまでの副長助勤制度を廃し、同助勤を隊長に据えた形での10番隊を新たに組織したのである。 また、当時としては先進的であった月給制などの仕組みや、経理や小荷駄方にいたる係も含めて土方の才覚を伺わせる人員配置が敷かれ、新選組は内側の骨組みをより太くしようとしていた。 「2番隊組長ねぇ」 新たに組長という役職についた新八を、左之が団扇で扇ぐ。 巡察帰りの彼の背中は、着物に染みがうっすら浮かぶ程に汗ばんでいた。 左之は、急速に闇に落ちる空を見上げながら、呟く。 「池田屋の空がまだ残ってる気分だな」 「…何だよ?」 足を濯いでいた手を止めて、新八が顔を上げた。 頬に張り付いた髪を、左之の手が優しくどかした。 「新八っつぁん、お疲れじゃねぇ?」 髪をどかした頬は、どこかこけているようにも見えた。 「確かに池田屋辺りからこっち、暑さがひかないからなぁ」 「…暑気あたりじゃなくてさ」 漸く足を綺麗にして畳に上がった新八を追って、左之は今度は自分を煽ぎながら首を捻った。 「何て言うのか…肩に力が入りっぱなしっていうか…」 考えながら言う、言いながら考える、という調子の左之の声を背負いながら、新八は自室に戻る廊下を歩いていた。当たり前の様に付いてくる左之を咎める様子も無く、ただその大きな存在感を感じながら。 「何だよ、お前の方が疲れてる感じじゃないか?」 恐らく体力ならば新八の数倍はあると思われる左之に、そんな事を言いながら。 部屋の障子戸に伸ばした新八の手を、左之が押さえた。 「冗談じゃなくてだ」 意外に真剣な声に、新八はその顔を振り返る。 新八より上背のある身体が、廊下を塞ぐ形で目の前にあると結構な圧迫感だ。 「何だよ左…」 「お前、絶対無理してるだろ」 真剣な眼差しで左之が言った。 その瞬間、新八の視線が左之の背中の辺りを鋭く捉え、そして無言で左之を部屋に引きずり込んでいた。 目の前に晒されていた彼の胸ぐらを掴まえて。 バン!と締められた障子戸の衝撃より、部屋に無理矢理引っ張り込まれて放られた左之の驚きの方が大きかったらしい。 閉まる音に負けない音量で、新八に怒鳴っていた。 「何するんだよ!?」 「時と場所を考えてものを言え!」 噛みつかんばかりの左之の勢いに全く引く事なく、新八も言い返すが、その声は小声に近い。 彼は障子を背中にして、そっと薄くそれを開いた。 細長い視界に入るのは、誰もいない廊下に落ちる夜の影ばかり。 しかし暫くは鋭い視線をそこから廊下に向ける新八に、どかりと部屋に座り込んだ左之が眉をひそめた。 「何してる?」 「…誰かいたんだ」 「そりゃいるだろう、ここは屯所だぜ?俺達の住み処だ」 誰か=仲間という図式を簡単に頭に浮かべた左之に、新八は小さく吐息を吐いた。 池田屋以後、新選組の名前は日本中に飛んだ。 それこそ誰か鳥の背中に乗って喧伝して回ったのではないかと、そう思うほどの勢いで。 事変後に膨れ上がったのは給金と、更なる恨みを増した敵の数。 そして、隊士志願者だった。 腕があればのし上がれるという単純明快な構図と、実際の活躍と給金の実情と。 それらが乱世のあぶれ者達を惹き寄せたのだろう。 人数が増える事は戦力増大につながり嬉しい事だが、それは幾つかの問題を内包してやって来た。 「一つは、密通者」 大勢の隊士を入れる時にはどうしても身元確認等に隙が生じる。 そこを突かれて中に入り込まれてしまえば、命にも関わる。 「一つは、上昇志向の強すぎる奴」 腕があればのし上がれるが、仕組みというものが出来上がった今、局長・副長以下の役職は埋まっている。 そう、腕でのし上がれる魅惑の役職、組長。 隊を10と定めた以上、組長は10人しかなりえないのだ。 誰かが、何かで命を落としたりしないかぎり、新選組では平穏な脱退はあり得ない。 「俺達は隙を見せちゃならない」 新八は灯をまだ灯さない室内で、どんどん暗くなるにまかせたまま語った。 「俺達は最強でなくちゃならない」 太陽の最後の叫びが、薄い障子の隙間を通って新八の目を当てた。 キラリと光る瞳に、左之は。 「だから、無理してまで頑張ってるってのか?」 むすっと口をヘの字に曲げた。 今の自分の話を聞いていただろうか?と新八は頭を抱えた。 「お前だって10番隊組長なんだから、下からも敵からも追われる立場なんだぞ!?」 「判ってるさ!んな事ぁ判ってる!俺だって自覚してるさ!」 その返答に、新八は「本当に判ってるのか?」と呻きたくなる。 だが団扇でパタパタと風を起こしながら、左之は優雅なものだ。 「判ってるさ、俺だってそれくらいは。ただよ…」 「…何だよ」 まるで新八の部屋を自分の部屋の如くに構えて、左之がちょいちょいと新八を手招きした。 渋々と障子を完全に閉めてから、そちらに寄った新八の腕を、左之が無理矢理引いた。 「うわっ」 急な力に体勢を崩した新八を、そのままひざ元に抱き寄せると。 足の間に新八を寝かせる様にして、左之はその顔を上から覗き込ませてきたのである。 左之の膝枕で彼の顔を見上げる新八に、豪快な笑みが降り注ぐ。 「俺が側にいる時くらい、背中の力は抜けや」 そんな言葉と一緒に。 「…肩の力じゃなくて?」 呆れ返って、膝枕をされたままの新八が尋ねる。 「背中の力だ」 答えながら、左之の足がこちょこちょと新八の背中辺りで動いた。 くすぐったいような奇妙な感覚に、新八が笑いながら身をよじる。 「おい、よせっ!こらっ」 「ほら、背中も凝ってるじゃねぇか」 必死に身体をくねらせて逃れようとする新八の肩を上から押さえつけて、左之がからかうように笑った。 実際に新八の肩も背中も、左之の足には酷く固まって感じられたのだが。 左之は吐きたい溜息を堪え、明るい顔のまま新八に言った。 「背中は俺に任せろよ」 「…左…」 「お前の背中は、俺が守ってやるよ」 だから、と続く言葉を飲み込む左之に。 新八は暫くその顔を見つめてから、全身の力を抜いた。 左之が煽ぐ団扇の風が、新八の頬を気持ち良く掠める。 「俺がお前の背中を守ってやる。離れた場所にいたら、駆けつけて守る。屯所にいる時はいつだって守ってやる。殿は10番隊のお役目なんだぜ?」 かっかっかっと笑う左之に、新八は完全に身体を預けながら少しだけ笑った。 「そしたらお前の背中は誰が守るんだよ」 「お前」 「やってらんねぇ!」 あっけらかんと言ってのける左之に、新八はぷっと噴きだした。 だけど、言われた事で確かに何か嫌な緊張の糸が解けたのは事実。 実を言えば。 池田屋以後2番隊を率いる様になってからというもの、夜の眠りが浅くなっていたのだ。 自分たちも平隊士相手に、深夜突然に奇襲訓練をする事があるが。 まるで、誰かが寝首を掻きに来そうな気がして。 心地よい体温を感じる背中と、緩やかに届く風とを感じながら、新八はそっと目を閉じた。 そして、あっという間に訪れる睡魔に、素直に意識を委ねていると。 小声で囁く左之の声がした。 「ゆっくり眠れよ、ここにいるから」 その頼もしく、誰よりも信頼できる友の言葉に。 新八は小さく頷くのだった。 ふいに、耳を打つ足音。 ドドドドドド…という物音に左之が顔を上げると、障子戸の向こうで平隊士が報告した。 「三条の先で不逞浪士と思われる輩達が終結しています!!」 中にいるのは新八だと思っているのだろうか。 しかし、当の新八は左之の足の上で健やかな寝顔を見せている。 この物音と声を聞いても起きない彼に、左之は満足げに笑った。 「すぐ行く!!」 「…あ、はい…え?」 左之の返答の声に、やはり新八に報告しているつもりだったらしい平隊士の声が揺らいだ。 それを無視して、左之はポンポンと優しく新八の頬を叩く。 それでやっと眉をしかめた新八に。 「出番だぜ、組長!」 左之が言い放つと、新八の目が一瞬にしてカッと開かれたのである。 素早く立ち上がる新八に、取り上げておいた彼の差し料を投げ渡して。 「いっちょ暴れてくるか!」 左之が笑うと。 「帰ってきたら、俺が膝まくらしてやるよ」 早くも障子を開けながら笑った新八。 左之はその言葉に笑みを返したが。 突然開いた障子から、そんな組長発言を聞いてしまった平隊士の目が点になっている。 「2番隊出るぞ、集合かけろ!」 一瞬呆けていた平隊士が、新八の声に慌てて駆けていくのを見ながら。 新八と左之も駆け出した。 「10番隊も後れを取るな!出るぞ〜〜っ!!」 屯所の中に声を響かせながら、走る左之の目の前で、新八の髪の毛が揺れる。 走るその背中を、揺れる髪の毛を、左之は満足げに見つめた。 その後ろ姿をいつまでも守ってやる。 お前の背中には俺がいる。 だから、走れ。 声にならない左之の思いに。 新八が差し料を握った右腕をあげて、答えた。 「おう!」 俺達は走るしかない。 駆け続けて、どこまでも走り続けて。 辿り着くのがどこであろうとも、道を曲げる事は許されないのだ。 ひたすらに真っすぐの道が途切れる時。 それが自分たちの終焉なのだろうけど。 それまでは。 その道を行くお前の背中を、俺が見つめ続ける。 俺がお前の背中を見ている限り、お前は絶対に無事だから。 お前が走り続ける限り、俺も無事にお前の後ろにいるから。 だから、走れ。 |
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実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。