雪は、全ての罪を隠し
全ての優しさを溶かしていく…
|
慶応元年2月、山南敬介は新選組を脱走した。 前年、暮れ。 山南は一人、川沿いを行く。 空はどんよりと白い雲に包まれ、今にも落ちてきそうな圧迫感を醸し出している。 身を過る空気は冷たく、皮膚を切り裂く鋭さを持っていた。 用事があって、屯所を出た。 朝、出て。 今、夕方。 もしかしたら、もっと遅い時間かもしれないし、もう少し早い時間かもしれない。 朝からずっとこの厚い雲に支配された街は、時間の感覚を見失っていた。 それでも、目的地で費やした時間は、残酷なまでに正確に判っている。 山南は、今歩いてきた方角を振り向いた。 「…明里…」 色街の女。 その柔らかい肌にうずもれれば、嫌な事も全て忘れてしまう。 線香の計る時間の中で、欠けた心を埋めるように貪りあう体と体。 抱く目的が、愛だけではない事は、彼女を傷つけているのではないだろうか。 山南は思う。 愛している。 それは間違いの無いこと。 しかし、彼女を抱く事で現実逃避をしていることも、また事実。 男の逃げ道になっている事を、許してくれているのだろうか。 それとも、線香の燃え尽きる間の我慢と耐えているのだろうか。 『愛している』 そう伝えて、了解も同意も得た。 いつか落籍させてと、思っている。 ただ、その『いつか』が判らない。 いつ…明日か明後日か、来月か…来年か。 自分は、それまで生きていられるのか。 屯所へと帰るはずの足が、一向に屯所に向かない。 彼は段々と川沿いを行き、屯所から離れていく…。 やや、雲が黒くなる。 やはり夕方から夜に差しかかっているらしい。 そっと、傍らを流れる川を見ると、そこにも黒い影が濃くなってきていた。 若く薄い水色から、濃く年老いた黒へと。 まるで、新選組のようだ… 山南の目に、流れる黒が血の色に見えたりもした。 「………僕には…」 山南の目が、歪む。 その黒い川面に、あの男の顔が映る。 新選組の死を彩る男、土方の姿が… 「僕には…無理だ…」 もう…山南の口が、そう続けようとした瞬間。 「山南さん?」 天候とは不似合いな、うららかな声が山南の耳を打った。 ハッと目を見張ると、川面からは土方の姿は消え、代わりに。 「何してるんですか?」 小首を傾げる、総司の顏が映っていた。 巡察ではないらしい。 総司は普段着姿で一人きりだ。 「こんな寒い中…ああ、明里さんかなぁ」 ちらりと総司の目が、色街の方角を見た。 山南はぎこちなく頷きながら、まだ若い青年の様子を探った。 「何故、君は、ここに…?」 「ええ〜ああ…ん〜…まぁ色々」 総司もまたぎこちない笑みを浮かべて、頭を掻く。 その顔色はどことなく青白い。 以前はむしろ色黒だったこの若者は、最近めっきりと肌が透けるようになってきた気がする。 事実、夏の池田屋では倒れたらしい。 …らしいというのが、山南の知る限界である。 全ての情報は土方が掴み、管理しているのだ。 山南にはもう届かない。土方と目を合わせれば、いがみ合い溜息の応酬となってしまう。 「…体調が悪い?」 「……あは…」 心配そうに山南が顏を覗き込むと、総司は薄い体を揺らして笑った。懐に手を入れ、何かを取りだす。 「薬?」 かさりと示された物に、山南は眉をしかめた。 「これをね…貰いに来たんですよ。実は」 「何の薬なのかな?」 総司はまた首を傾げる。 こうゆう仕草は昔と変わらない。高い背を丸めるように、飄々と人懐っこい笑顔を見せながら、総司は何かを呟こうとした。 その時…。 頭上から、はらりはらりと白いかけらが、揺れ落ちてきたのである。 「雪だ」 「わぁ」 揃って空を見上げると、重く垂れ込めた雲から大きな白が幾つも幾つも降りてくる。 それは乾いていた地面に落ちると、溶ける事無くしっかりと己を保ったまま二人を見上げた。 総司はハッと山南の腕を掴む。 「結構な降りになりますね、これは!」 だから早く屯所に帰ろうと、そう彼は言っている。 だが、山南は動けなかった。 事実、今の今まで彼の足は屯所から、遠くへ遠くへと動いていたのである。 それを知ってか知らずか、総司は「走ろう」と山南を引っ張ろうとする。 「山南さん?」 「……悪いが」 不思議そうに見つめてくる総司に、山南は首を振った。 ゆっくりと自分の腕を掴む総司の手を、はずした。 「先に帰っていてくれないかい?」 「あ〜あら、これからでしたか」 何かに気付いたように、総司の目が再び色街を見る。 それに首を横に振ると、山南は優しく笑った。 「出来るだけゆっくりと…歩きたいんだ」と。 「…雪、降ってますよ?」 「ああ、判ってる」 「そっかぁ。じゃ、俺も」 手の平で雪を一つ受け止めて、総司は笑った。 山南と総司の間を、白いものが幾つも横切っていく。 あっという間にお互いの頭や肩に、白い装飾として積もる雪。 山南は懐から手ぬぐいを出すと、総司の頭や肩についたそれを払った。 「…その薬を無駄にしない為にも、君は早く帰りなさい」 言われると、総司の目が辛そうに、山南から戻った薬に落ちる。 「山南さんは?」 「僕は…」 ふと、山南の足が動いた。 それはやはり、屯所とは逆の方向へ。 雪の中、夕暮れの中を向かうべき場所じゃない。 しかし、そもそも自分のいるべき場所などあるものかと、山南には思えた。 シャリ…と既に薄く地を覆う雪を、山南の足が踏む。 「そっちじゃないですよ!」 再び、総司のが山南の腕を掴み止める。 「良いんだ」 「良くないです!そっちは山南さんの方向じゃない!」 「総司…」 川にも染み込むように落ちていく雪。 それが、川に映り込む二人の姿を、揺らした。 影が濃くなる。 夜は姿を見せると、あっという間に空を包み込む。 吐く息の白さも雪に負けじと濃くなる中で、総司の強い眼差しが山南を射貫いていた。 「どこへ行く気ですか、山南さん」 「さて、どこだろうね」 総司の気迫をかわすように、山南はクスッと笑った。 「どこでも良いんだろうなぁ…ここではない所なら」 「土方さんのいない、所なら?」 「君は、時々凄く残酷になるね」 肩を揺らして、山南は総司の手をポンポンと叩いた。 しかし総司の眼差しは揺らがない。 真っすぐに山南を見つめ、そして総司は急ぐように口をついた。 「話して下さい、山南さん!俺に出来る事なら…っ」 誰もが気付いていた、山南と土方のすれ違い。 それは試衛館からの馴染であれば、嫌でも判る空気だった。 きっとこの若者は考えてくれていたのだろうと、山南は思う。自分の大好きな土方が、山南という古い仲間の事で思い悩む姿を見て、考えていたのだろうと。 そして、土方にそれを言わずに山南の方へきた。 本当に、君は土方君の事を、よく判っているね…と山南が答えようとした、その時だった。 「…っがっ…!!」 山南の腕を捉えていた総司が、身を揺らして屈めた。 その足下に… 「…総司!?」 赤い雫が、丸く落ちた。 白く広がる雪に、溶け込むように落ちる赤い点。 目の前を白い斑点が落ちる中で、山南の視界にその赤だけが目に飛び込む。 苦しそうに、息を荒げる総司。 咄嗟にその体を支えた山南の胸に、駆け登ってきたもの。 「…労咳…!?」 「…がっはっ…」 「労咳なのか、総司!?」 山南にすがりながら、総司は息を整えようと必死になった。 その肩が震えている事に気付き、山南は辺りを見た。 「どこかで…」 雪の降る寒さの中より、どこかで暖を… そう視線を巡らせた山南に、総司が呻いた。 「大丈夫…大丈夫です」 「大丈夫なこと無いだろう!お前いつからっ」 夏の池田屋。 頭を過るその記憶。 知っているのか、彼は、この事を。 「土方くんは、知っていて君を」 「山南さん」 「知っていて、まだ隊務につかせているのか…っ!?」 「山南さん、良いんです!」 総司が顏をあげた。 口が赤い。 いや、赤いのは口の中…込み上げた血の生々しい跡。 「いつから…」 古くから知る顏が、いつの間にこんな姿をするようになったのか。 同じ建物の中で暮らしていて、何故気付かなかったのか。 倒れたと聞いた時、何故尋ねなかったのか。 土方君は知っていた…当たり前だ、彼は池田屋に行った。そして倒れた総司に尋ねただろう。 「何があった!?」と。 尋ねもせず、知らされないと殻に閉じこもっていたのは、自分じゃないか。 「………すまない、総司」 「やだな、何を…謝るんですかぁ」 総司がちょっとひきつった笑いを浮かべる。 まだ、喉の奥で何かが渦巻いているのだろう。 山南は総司を抱きしめていた。 黙々と、何も語らずに振り続ける雪の中で。 白く染まる視界の中で。 何故、この青年が病にならねばならない。 胸に抱えた濁る血を吐き出さねばならいのは、むしろ自分。 もやもやとする物を胸にしまい、一人部屋で外に背を向けてきた自分。 一人考える事が増え、誰かに相談する事など皆無になっていた。 ぶちまければ良いのだ。 全て、吐きだしてしまえば良いのだ。 この若者が、代わりに血を吐く事などなくて良い。 ただ純粋に無垢な魂を慕う人に向けるこの青年は、誰かの代わりに血を吐くのだろう。 あまりに濁り汚れてしまった、周囲の人々を浄化する為に。 毒を吸い、毒を浄化し、吐く。 しんしんと降る雪が、総司の吐いた血を塗り潰して隠していく。 すっかり薄い膜の張った川面に、二人の姿が揺れずに映る。 「すまない、総司」 「だから、何を謝るんですかぁ?」 そっと体を離すと、やや落ち着いてきた総司が肩をすくめる。 今度の笑顔は、自然だ。 視界一面が白く染まる中で、この青年もまた白く一体化していく。 違うのは、ただ口の中に残る赤だけ。 山南はその赤をじっと見つめながら、総司の腕を引いた。 「帰ろうか」 「…どこに?」 「屯所に」 ポンポンと、総司から雪を払う。 「…良かった」 そんな山南を、総司が本当に嬉しそうに、笑った。 「すまない、総司」 山南は、脱走する。 決めてしまった。 もう引き返せる場所ではない所まで、来てしまった。 だけどせめて、顏を向き合わせて逝けるようにしようと思う。 裏切り、誰かの血を流すのではなく。 己の血をもって、この身の存在を問おうと思う。 己の内側へ向かう問いを、外に向けよう。 そして、散ろう。 この雪の如く。 波立つ人の心に、静寂をもたらせるように…。 「帰りましょう、山南さん」 2月、脱走した山南を大津で捉えた総司が、唇を噛む。 その肩をポンと叩いて、山南は笑った。 「ああ、帰ろうか…」 晴れやかな空の下、山南は明るく笑った。 |
|
|
|