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夜が更ける。 神秘的にも見える暗闇を部屋から見ながら、新八は漂う香りに気付いた。 それは芳しいというにはほど遠く、香りというよりは臭気だった。 と、視界に黒い人影が動く。 「…左之か?」 抜き足差し足忍び足で自室へ引き揚げようとする左之を呼び止めると、彼の背中がびくっと震えた。 その瞬間に何かが彼の手からこぼれ落ちる。 「あちぃっ!!」 「あ?」 バタバタと踊るように跳ねながら、それでも手にした何かを放そうとはしない左之。 新八は眉をしかめながらも近づくと、左之の手にした物からその臭いがしている事に気付いた。 「お前何を持って…」 「わ〜〜〜〜〜っ!」 くんくんと臭いを嗅ぎながら覗き込む新八に、左之が叫び声を上げる。 それを五月蝿いとばかりに手で黙らせると、やっと臭いの正体が彼にも判った。 「………雑煮? …いや、粥? それとも…」 とにかくそんな感じの食べ物。 「すいとんを作ったんだよ」 ぶすっと口を曲げる左之の顏を、新八はまじまじと見た。 そして一言。 「こんなの食ったら腹下すぞ?」 「俺のお手製だぞ!?」 悲壮な叫びを上げた左之だったが、同時に彼の腹も悲鳴を上げた。 ぐ〜〜〜〜〜。 その音に新八と左之の視線が合う。 途端に真っ赤に染まる左之の頭を叩きながら、新八は笑った。 「来いよ。もうちょっとましなもの食わせてやる」 少し涙目の左之が見ると、新八の背中は台所へと向かっていた。 京都の夜の、そんな一時。 トントントントン…小気味良い音が響く。 暖かな湯気が上がり、時折その中身を新八がチェックしていた。 左之は板間に座りながら、その背中をじぃっと眺めている。 手には新八が煎れてくれたお茶が白い湯気を立て、寒さに縮こまる彼の体を中から暖めてくれていた。 ズズズ…と茶を啜っていると、新八がこちらに背を向けたまま声をかけてくる。 「もうじきだから」 「おう」 ぶすっとした感じの返事に、新八が苦笑する。 結い上げられたクセっ毛の向こうに、白い首筋が見えるのに左之は気付いた。白い白い首筋…ふと、先日抱いた妓を思いだす。首筋の背中にかかる間際に、黒い点が一つ。妓の首筋に顏をうずめると、不思議にそれが目に付いた。 赤い唇と、白い首筋と、一つの黒子…。 「うわっ!?」 新八が驚いて声を上げる。 いきなり首筋の着物を左之が引っ張ったのだ。 「何だ!? 俺は食えねぇぞっ!? ほら、もうこっちが完成だから…」 菜箸を振りながら、引っ張られる着物を押さえながら、新八は必死に抗議した。 その手前には、暖かく食欲をそそる香りを放つ汁物が出来上がっていた。 「左之っ…?」 新八が何とか振り返ろうとすると、ふいに首筋から背中にかけて暖かい空気がなだれ込む。 左之が新八の背中に顏を突っ込んでいるのだ。 「…無い」 「何が?」 「黒子」 「は?」 背中からしっかりと抱え込まれ、新八は諦め半分で尋ねていた。 黒子が無い? 俺の背中に黒子? あったとしても俺には見えないよ。 ふぅ…と溜息が新八の耳をかすめる。 左之は顏を上げると、新八の肩に顎を置いて彼を見上げた。 その左之の顏を間近に見ながら、新八はちょいちょいと菜箸で鍋を指し示した。 「食うか?」 「うん」 瞬間的に、左之の顏がにまっと笑顔に変わる。 その笑顔に弱いんだよねぇと思いながら、新八は湯気の立つ鍋の前に立った。 熱い湯気を上げるそれは、大根やいくつかの野菜や里芋等と一緒に生姜の入った身体の温まる一品だった。 「味噌汁だ」 「夜中にもたれるもの食うなよな」 はふはふと美味しそうに器にがっつく左之を見ながら、新八自身は茶を一口啜った。 外はしんと静まる闇の世界。 屯所中もほとんど灯が消えている。 ここだけが、一つ暖かな灯をたたえているのだ。 「美味いっ」 「当たり前だ」 ぶは〜っと上気した顏を上げる左之に、つい新八も口元が緩む。 「まだまだ一杯あるから、ゆっくり食えよ」 新八自身はそれほど空腹でも無かったので、相変わらず茶を啜った。 「身体がほかほかする…」 「生姜入れたからな。芯から暖まるだろうよ」 新八の声を聴きながら、左之は口に箸をくわえつつ自身の指先を見つめた。 さっきまで冷えていた指先が、今は真っ赤に思える程に熱い。 そしてまた、視界をかすめる妓の指先。 白く細い指先は、誘うように舞う蝶の如く左之の視線を捉えて放さない。 新八は湯飲みを落としてしまった。 また、ふいに左之が背後からひっついてきたからである。 板間に腰掛けていた新八の背後から、左之が子供のようにひっついている。 ただ彼は本当の子供ではないので、新八はかなり強い力で引きつけられていた。 「…左之?」 流石に二度目だ。 新八が声をかけると、火照った身体から出る吐息がかかる。 熱い。 ドクンドクンと、規則正しく打たれる左之の心の臓の音までが伝わる位に身を寄せて。 さて、黒子の次は何だろう?と新八は考えた。 「何だよ、眠いんだったら部屋に帰って…」 「無いのかな」 ぼそりと呟かれた言葉に、新八が一瞬だけ考える。 「何が」 「心」 「誰の」 「妓」 新八は身を捩って履物を脱ぐと、それで左之の頭を殴った。 ずるずるずると、新八の肩から背中に左之の顏が沈んでいく。 「何言ってやがる」 「だってよぉ、新八っつぁん」 ぶぅっと顏を上げて、左之が新八の首筋に手を伸ばす。 すっと暖かい指が新八の皮膚に触れる。左之の指は新八のクセっ毛をすり抜け、白い首筋に右手をあてがっていた。新八のそれほど太くもない首は、左之の大きな右手に収まる。 「作り物みたいなんだ…」 「いつの妓が」 「いつも…いつだって」 左手も新八の首に添えると、ふと、左之の手に力がこもった。 ねぇ、左之様… 嫌ですわぁ… ほほほほほほ… 軽やかに甘く響く妓の声。赤い唇・白い首筋・肌に落ちる黒子・鼻をくすぐる白粉の香り。 腕に抱いても芯が無いように、脆く崩れそうな身体が猫のようにしなる。 赤い世界。 そこは夢現つの世界。 新八の首が指の中にある。 ぐっと力を込めたら、折れてしまうだろう。 「………俺は本物だから、殺すなよ」 ぶっきらぼうに新八が呟いた。 「お前…一つに一つを加えると二つ…なんて計算を求めているんじゃねぇだろうな」 「…え」 「女の心が欲しいなら、本当の恋人を見つけることだな」 ふっと左之の手が離れたので、新八は「ふぅ」と首筋をさする。 そして左之を振り向くと、彼は呆れ返った顏で言った。 「芸妓にそんな事まで求めちゃいけねぇよ。お互いに一時の隙間を埋める仮初めの仲なんだから。いちいち本物を求めていたらお互いに身が持たねぇ」 言いながら、落ちた湯飲みを拾う新八の指に、割れた破片がチクリと刺さる。 少し顏をしかめながら、それを舐める新八に左之は呟いた。 「だって…俺は…だって、どの妓も同じに思えちゃってさ。まるで血が通っていない人形みたいで…なんていうのか…うぅ〜ん」 「…ガキ」 ペロっと血の滲む舌を見せながら新八は呟いた。 頭を抱えていた左之は、その言葉に情けない顏を上げる。 「やっぱり?」 「そんな事考えて眠れなかったとか?」 「…そう」 「やっぱりガキだ」 はははははっと新八は声を上げて笑いだした。そして湯飲みを捨てる為に立ち上がると、その新八の腕を左之が取る。 「ぱっつぁんは、悩んだこと無かったか? 妓を抱きながら…こう…」 その真剣な眼差しに、新八は優しく笑った。 「向こうにとっても、俺は客の一人でしか無いからな。お互い様だよ。偽物同士、一時の幻の相手だと思えば、後は楽しむだけだろが」 「…大人…」 左之は少し悔しそうに、眉根を寄せた。 そう割りきりたいと思っていても、割りきれないでいる。 新八は自分の腕をとったまま放さないでいる左之に、思いついて一言呟いてみた。 「お前さ、欲求不満でも俺は襲うなよ」と。 その瞬間、左之の目が雷に打たれたかのように輝いた。 ガタガタという物音と、漂ってくる暖かで食欲をそそる香り。 総司はがらっと台所の戸を開けた。 すると、案の定美味しそうな鍋が蓋を開けている。 「うわ〜美味しそう」 「あ、総司も来た」 「何だ、藤堂さんが作ったんですか? あれ、源さん? あれれ、島田さん…?」 総司が中に入っていくと、そこでは藤堂や井上・島田達が湯気の立つ器を手にしていた。 その輪の中に入ると、島田が総司にもその汁物を手渡してくれる。 「多分ね、永倉さんだと思うんだけど」 「え?」 ズズズズズ…と美味しそうに汁を啜りながら、藤堂が「あれ」と部屋の隅を指さす。 「何か美味そうな香りにつられて起きてきたら、さっきからずっとああなんだよ」 そう藤堂が説明するものとは… 「やめろ〜〜っ放せ〜〜〜っ!」 俯せに倒れた新八が、背中にのし掛かった左之から逃れようと四苦八苦している。 「俺は判ったよ、ぱっつぁん!一つの本物があれば、他が全部偽物でも安心して楽しめる!!」 「それは良かったな!だったら早くその本物を探しに行け!!」 「いや、俺は新八っつぁんが良い!それが一番確実だ!!」 「ふ〜〜ざ〜〜け〜〜る〜〜なぁ〜〜〜〜っ!!」 喜色満面に叫ぶ左之に、青ざめて鬼気迫る表情で悲痛な声を上げる新八。 左之は新八の首筋に唇を寄せると呟いた。 「俺達、一心同体だろ?」 ゾワゾワゾワと走る恐怖に新八は叫んだ。 「お前のは愛情でも性欲でもなくて、食欲だろうが〜〜〜っ!!」 しかしその絶叫も、左之の一言でかき消された。 「いっただっきます♪」 凍える夜は、人の心を暖かにして更けていった…。 |
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