心の臓が沸き立つ

遺 言

まだ冷たい風が頬を撫でる。
夜が明ける寸前、朝日の差し込む気配だけが漂う時間。
島田魁は、一人西本願寺境内を歩いていた。
一体幾日、こうして歩いてきた事だろう。
今はもう鳥の声しかしない朝も、もっと野性的な音で迎えた事があった。
梅の香、桜の予感漂う空気も、きな臭い匂いに包まれていた事があった。



ひらり、桜の花びらが一枚、目の前を舞い落ちた。



左右にゆらゆらと、薄い影を落として着地した柔らかさ。
しんと、それを見つめた島田の体が、びくんっと跳ねた。
地震か…違う。
揺れたのは、自分だけ。
桜の花びらは、そこに静かに佇んでいる。
島田は手を伸ばした。
ゆっくりと、ゆっくりと。
その武骨な指先が、薄い花びらに触れようとしたその瞬間…。



彼の体は、再び跳ねた。
そして…倒れた。



空は、明けを迎えて青くなっていた。








「…ああ、今日も晴天だなぁ…」
ぼんやりと空を見上げていた島田の耳に、パーンと乾いた音が一つ、聞こえた。
銃声か?と辺りを見渡すが、ふっと首を二三振った。
ここで銃声など、聞こえて当たり前なのだ。
島田は腰に差した刀を手に取り、きらりと光にかざしてみた。
ずっとこれで戦ってきたのにな。
彼の腰には、銃もさされていた。
こんなもの…と指で弾くが、返ってくるのは冷たい金属の感触。
刀には血が通っている気がするが、どうにもこの銃とやらにはそれがない。
「京の時は…」
この愛刀を握り、常に駆け続けてきたものを。
島田はもう一度空を見上げた。
「この函館の地では、そんな戦はもう出来んか…」
彼が仲間とともに現在居るのは、函館・弁天台場。
5月15日。
ここに、土方は、いない。



汗と埃と血で汚れた顔をぐいと拭い、島田は刀を構えた。
腹も満足に満たせない中、いや、どうせ食っても気が満ちない。
ならばいっその事、刀でも振っていた方が気が晴れる。
「えいっえいっや!」
野太い声を刀と共に振り上げていると、懐かしい声が聞こえてくるようだ。
「何だ島田、そのへっぴり腰はよぉ」
「五月蝿い永倉」
びっと刀を振り下ろす。
「仕方あんめぇ。島田の得意は槍だっただろうが」
「槍使いの原田に言われるとはな」
ぐっと刀を突きだす。
「島田さんは、何でも器用にこなしますからね〜」
「沖田さん、私はね…」
島田は刀を下ろした。
うっすらと鼻の頭に浮いた汗を拭く。
「親が腹を切った後、色々なところに世話になったもんだ。…器用でなければ、生きていけなかったんですよ」
ポツリと呟くと、再び沖田の声がした。
「今も、器用に生きられてますか?」
島田はしばし無言になった。
何故、今こんな声を聞くのだろう。
沖田は京で発病した病をもって、江戸で死んだと聞く。
剣の天才だった沖田も、その好きな道では死ねなかった。器用に生きられる性格でもなかったようだが、それでも不器用に過ぎる死に思える。
はて、声が聞こえたという事は…
「永倉と原田も…」死んだのだろうか。
二人の悪ガキのような顏が思いだされると、島田はふっと笑った。
あの二人に、器用も不器用もあるまい。
ただひたすらに己の道を走り、壁にぶつかってもよじ登り、海に出れば泳ぐ、そうして力尽きた瞬間に逝くような連中だ。もし死んだとしても…。
「戦って、死んだのだろうな」
その時、島田の目に中島の姿が映った。



中島登…今度は懐かしいものではない。
現実に影を添えて、彼の目の前に立つ人間である。
どちらかといえば、ひょうひょうとした男。
がっちりとした巨漢の島田とは違い、顔も体もほっそりとしていた。
その中島が、何だか薄暗く揺れて見える。
「…どうした?」
目の前に現れ、ただじっと立ち尽くす中島に島田の方から声をかけた。
もう何を言われても、これ以上の最悪は無いところまで来ている。
だから島田は、殊更明るく振る舞う事にした。
「俺と一緒に稽古でもしたくなったか?」
中島はうなだれている。
「稽古は良いぞ〜脳みそまで筋肉にしちまえば…」
「副長が死んだ」
いきなり中島が呟いた。
そのいきなりさと、言葉の内容に、島田が固まる。
一瞬で、心臓を鷲掴みにされた気分がした。
「…な…」
声が出ない。
何を言ったんだ、今。
島田はうなだれ、顏を上げずに揺れている中島を睨んだ。
「副長が…死…」
中島の声が辛そうに漏れる。
その体が揺れている理由が、島田にはやっと判った。
耐えている、必死に。
唇を噛みしめ、赤く腫れた目を隠し、崩れ落ちないように必死に足に力を入れているのだ。
「何を…」
島田は中島の両肩を掴んだ。
爪が食い込むほどに強く、そして激しく揺すった。
「何を言ってる?」
「土方副長は…もう…!」
「嘘だ!!」
島田の声が、中島の嗚咽をかき消した。








祇園祭の音が聞こえる。
流れる汗を手の甲で拭う島田に、ぽいっと手拭いが投げられた。
「使え」
「は、ありがとうございます」
集会所に集まった新選組の仲間達の中に、土方がいた。
今日は祇園の宵山。
人込みで暑さが倍以上に感じる中で、彼らは出番を待っていた。
「あの」
手拭いを返そうかどうしようか迷った島田が声をかけると、やはり額に汗を浮かべた土方が顎をあげた。
「やる」
「え?」
「さっき左之も使った。もう、臭ぇ」
「そ、そんなぁ」
ふんっと唇を尖らせる土方に、島田が情けない顔をした。
すると、周囲で聞こえない振りをしていた仲間達から、どっと笑い声が漏れた。
「副長…」
島田が困った声を上げると、土方の目がにっと笑って島田を捉えた。
「俺が臭ぇんじゃねぞ、左之の汗が臭うんだ」
その言葉で、また笑い声があがった。





土方といえば、「鬼の副長」だ。
常にしかめつらしい顔をして、隊士に二言目には「切腹」を申し付ける。
そんな印象が暴走している感があった。
だが、間違いだとは言えない。
確かに厳しい現実が、彼らの前には横たわっていたのだから。
しかし、それだけじゃなかった。
島田の目に甦る土方は、笑顔だった。
本当はとても明るい、燃えるような熱情の持ち主だった。
決して言われているような、血も凍った冷酷な男ではない。
彼は、よく笑ったのだ。
そして、誰よりも新選組を、この国を、愛していたのだ。
そんな土方だから、皆付いてきた。
負け戦と判っていて、武士道だけで死ぬ向かえる程人は強くない。
だが、土方がいるから…土方が導いてくれるから…
この人を守りたいと、思ったから…
「嘘だ…!!」
島田はぐいっと唇を深く噛んだ。
血が滲むほどに、強く。
そうしなければ、溢れてしまいそうだったからだ。
今、目から大量に止めどなく溢れる涙が、口からも溢れてきそうだったから…。



中島の足が、崩れ落ちた。
ふっと島田の両手から、中島の体が落ちる。
「副長は…副……俺達を救おうと……」
島田の耳に、さっきの乾いた銃声が甦った。
さぁ…と顔面から血が引き、思わず走り出しかけた島田に中島が叫んだ。
「今日じゃないんだ!!」
ざざっと島田の足が止まる。
「今日じゃない…もう、何日も前の…」
中島は更に崩れ、そして激しい嗚咽とともに地面を掴んだ。
その手に、地面に、大きな滴が何粒も落ちる。
「……そんな…」
島田は、振り向けなかった。
今朝起きた時も、昨日歩いていた時も…いなかったのか、もう。
もう、土方はこの世にいなかったというのか。
そんな馬鹿な。
「そんな馬鹿な!!」
守ると誓ったのに。
この人を守り抜き、そして戦い抜こうと思ったのに。
あの人がいなくなった世で、俺はのうのうと稽古だなどと…
「嘘だー!!!」
この日、新選組は新政府軍に降伏した。









ドスン…
倒れた島田自身に、それほどの衝撃はなかった。
ただ、来るべき時が、来たのだな…という思いだけ。
西本願寺の境内…懐かしい光景が甦る場所で死ねるのか。
そんな思いだけ。
ずっとここにいた理由は簡単な事だった。
守りたかったのだ。
この、皆で過ごした思い出の地を。
守れなかったあの人の分まで。
戦争が終り、永倉や斎藤も生き残った事を聞いた。
共に降伏した相馬が自刃した事も聞いた。
皆、それぞれ生き残った後も戦っているのだろう。
そして俺は…守り続けた。
そう思っても良いのではないだろうか。
新政府に仕える事だけは出来なかった。
何故なら、何から守るかといえば、その新政府からこの地を守りたかったからだ。
どんなに安らかな時代が来ようとも、豊かな国になろうとも。
男が一度立てた誓いを破る事は、出来ない。



島田は倒れた体を、渾身の力で反転させ仰向けになった。
はぁはぁと息が苦しい。
だが、辛くはない。
随分と生きた。
本当に随分と長く、生き残った。
もう、良いだろう。
うっすらと擦れていく視界。
その中で、島田はひらひらと舞うものを見た。
それは、段々と数を増やし、ひらひら…ひらひらと舞い落ちてくる。
「…ああ…」
島田は目を見開いた。




そこに、満開に咲いた桜が彼を見下ろしていた。





ひらひらと、ひらひらと、何枚もの花びらが舞い降りてくる。
それはまるで、今まで出会った仲間達の数だけのようにも思えた。
沸き上がる思い出。
溢れ返る笑顔。
賑やかだったあの頃の…
島田は一枚の花びらを掴んだ。
そして、呟いた。
「願わくば…もう一度…」
島田はそれだけ言うと、ゆっくりと瞼を下ろした。




それが、島田魁の最期だった。








願わくばもう一度…
島田の魂が囁く。
もう一度、出会えますように。
ゆらゆらと空に舞い上がり、京の街を見下ろし、彼の魂は囁いた。





もう一度、彼らと出会えますように。
もう一度だけ、あの人の笑顔が見られますように。









□ブラウザバックプリーズ□

2008.7.24☆来夢

線は交差し、魂は交錯する、そして人はまた




実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。