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吐く息が白い。 京都の冬は深く、そして冷酷だった。 藤堂平助と言えば、隊内で知らぬ者の無い名前だ。 ある人は「魁先生」と呼び、ある人は「美剣士」と呼ぶ。 新選組といえば副長の土方歳三が美男子で有名だったが、藤堂もまたその見目麗しさから町の娘達の視線を釘付けにしていた。 だが、それは平助本人の中で重要な位置を占めない。 彼は餓えていた。 本能に。 新選組に伊東甲子太郎が入隊した事は、彼の役割に負うものも大きかった。 平助が伊東に求めたのは、新選組を変える事でも土方を倒すことでも薩長打倒の戦力でも何でもなかった。 平助は餓えていたのだ。 目の前に映る世界に不足しているもの。 何かが欠けていて、彼は満足できない。 土方でも近藤でも、天才剣士沖田でも、ましてや会津容保公でもそれを埋める事はかなわなかった。 平助の求める視界は、狂気の線を越えていたのかもしれない。 それを求めるうちについた名前が「魁先生」だったから。 伊東の唇は赤い。 それは何かを塗り付けた妓の赤さとは違う、何かおぞましい赤。 平助はその赤が優雅に動く様を見つめていた。 ふいに、その動きが止むまで。 「藤堂君」 「…は」 つっと視線の伊東の瞳に移せば、その中に悪戯気のある輝きが浮いている。 この伊東という男は、時々そういう輝きを持つ。 一見すれば斬れる様な美貌を持った、剣士というより風流人なのだが。実をいえば土方よりも卑劣な事が出来る男かも知れない。そう平助は思っていた。 土方でさえやらない事を、その澄ました頬の下に持っている。 「そろそろかな、と思っている」 そう言って伊東は口元を扇子で隠した。 こういった小道具を持ち歩く事も、土方が伊東を嫌う理由の一つらしい。 そう、副長・土方は、この参謀・伊東を毛嫌いしていた。 それはもう、本能から発せられる嫌悪感に近い。 「……そうですか」 そろそろと、伊東が言う言葉の意味は判る。 新選組から、伊東と伊東を慕う-慕う内容には個人差があるが-一派が離脱する事。 平助もまた、その一派に組するつもりだった。 新選組結成からの幹部である自分が抜けるという事が、一体どんな影響力を持つのか、馬鹿げた謙遜を抜いて判っているつもりだ。 伊東が立ち上がり、閉じていた障子を薄く開けた。 部屋に夕日が差し込み、影で黒くなった畳に赤い線を作る。 これも、赤…。 「二か三が…欲しいなぁ」 伊東の言葉に、平助は頷いた。 新選組はいつの頃からか一〜十の組編成を敷いていた。 平助自身も八番隊を任されている。 人事を握るのは土方である為、どうしても彼の息のかかったものが責任のある職につきやすい。 が、伊東の実弟を隊長に据えるなど、それだけでは無いのが土方の仕事だ。 土方は美しく、そして聡明だった。 だが…と平助は思う。 その土方でも、何か、足りない…。 果たして何が足りないというのか、そう考える平助の頭に伊東の唇が浮かんだ。 その時。 「おう、何だ暗い顔して?」 「永倉さん」 廊下をこちらに歩いてきた永倉を、平助は見た。 『…二…』 飲みにでも行くかと誘う彼の背中に、平助は心の中で釘を打った。 京都の町は江戸とは違う。 それは町並みも、店の品ぞろえも、その名称と実際の品との組み合せも…あらゆる事が違っていた。 永倉は生粋の江戸っ子である。 本来は松前藩の出だが、彼は江戸屋敷で生まれ育った為、松前藩の本拠地を知らない。 『……血筋は合格だ…が』 目の前で楽しそうに語り、酒を飲む永倉を見て平助はやはり思う。 足りないのだ、と。 うわべ楽しそうに酒を飲んでいた平助の額を、ふいに永倉が触れた。 一瞬はっと息を飲んだが、すぐに永倉の意図が判り平助は平然を装った。 「やっぱり傷が残っちまったなぁ」 「深かったからね」 そういうのは、平助の額にある傷の事である。 それはあの池田屋で負った傷だった。 間一髪のところをこの永倉に助けられたのだが、それでもこの傷の深さは彼の命を揺らした。 「あの時は、一瞬視界が真っ赤になったから」 自嘲気味に笑う平助に、永倉は「でも命があって何よりだ」と心からの言葉を投げかける。 あの時…平助の視界は自らの鮮血と汗とで歪んだ。 歪んだ中で、世界が煌めいた。 飛びかかってくる殺意を剥き出しにした敵と、飛び込んでくる返り血を浴びた永倉。 あの時、そこに命が集中していた。 ゾクリ…と背中に何かが走ったのを平助は覚えている。 永倉に斬られて絶命する男の目が、一瞬で輝きを失ってうつろになる様を、何故か覚えている。 「永倉さん、格好良かったなぁ」 そう笑えば、永倉は子供のように赤面して、 「よせやい」と笑った。 平助は思う。 あの時、敵にえぐられた指の付け根から鮮血を迸らせ刀を奮う永倉は…確かに格好良かった。 夜、屯所では原田が永倉を探して歩いていた。 「永倉さんなら、夕方藤堂さんと出かけましたよ?」 「えええ〜!何だよ、俺も誘えっつーの!!」 沖田が教えてくれた情報に、原田が地団駄を踏む。 その様に沖田が笑うが、すぐに咳き込む。 池田屋からしばらく、労咳の発覚した沖田の顔は日に日に白くなっていくようだった。 「総司…」 原田が優しくその背中をさすると、沖田が照れたように礼を言った。 「やだなぁ、最近の自分は何だか血抜きされた魚みたいですよ」 「けっ!こんだけ他人の血を吸った魚がいるかい」 がはははと笑う原田の口は悪いが、暖かな雰囲気が沖田を癒す。 そしてふと、彼は思いだした。 「そうだ、藤堂さんといえば…」 「あ?」 「変な事言うんですよ」 きょとんとする原田に沖田は言った。 「『総司は赤が足りない』って」 なんだそりゃ…?と目を丸くする原田と沖田は、同時に首を傾げた。 そこに、どたどたという足音がする。 「お!」と原田の耳がぴんっと反応したかと思うと、廊下の先から姿を現したのは永倉その人であった。 「遅いぜ新八っつぁん!」 「お帰りなさい」 迷わずまっすぐにこちらにやってくる永倉に、沖田が声をかける。 が、彼はその声には答えずに、二人の腕を掴むと自分の部屋に二人を引き込んだ。 その普段では考えられない強引さに、原田と沖田の目が更に丸くなる。 「どうしたんですか?」 尋ねる沖田と原田に、永倉は呟いた。 「平助がおかしい」と。 平助は先に部屋に戻ったらしい永倉と別れて、一人屯所の井戸端にいた。 返り血を流しているのだ。 日が沈み、月が世界を支配する時間。 ロウソクの灯も無く、ただ月明かりが手元を照らす中、彼はゆっくりとゆっくりと、腕についた誰かの血を流した。 そして水と混ざり筋になって腕を滑り落ちていく黒い流れを、微笑ながら見ていた…。 永倉は早口に言った。 飲み屋の帰り、長州の浪士と思われる輩に襲われた。 永倉はすぐに相手を斬り殺したが、平助は自分に向かってくる刃をぎりぎりまで待っていたというのだ。 「待っていた?」 原田が眉をしかめると、永倉も気味悪げに頷いた。 「判るか?間合いを計っているんじゃない。いつでも相手を斬れるのに、ヤツは待ってたんだ」 ゴクリと永倉は唾を飲む。 「笑いながら」 その言葉に、沖田もはっと息を飲んだ。 そして三人は黙って、お互いの顏を見つめた。 これを土方に報告すべきかどうか、永倉は結局…口をつぐんだ。 春を少し過ぎて、伊東とその一派は新選組から分派した。 土方は黙っている。 伊東も黙っている。 沖田は近藤の留守に、土方を訪ねた。 「どうした?」 いつも通り、自室の文机に向かいながら土方が言う。 沖田は単刀直入に言った。 「藤堂さんは、もう、駄目かもしれません」 ぎろり、と土方が眉をしかめて沖田を振り返る。 コンコンと咳をしながら、沖田は言った。 「藤堂さんも…血を流しすぎた…」 そういった彼の手には、わずかに吐きだされた血が滲んでいた。 平助は考える。 やはり、足りない…と。 新選組を抜けても、伊東の元にいても、何かが足りない。 この自分の心の空洞は何だろう、と。 いつからこんな不足感を持っているのか。 流れる景色はやはり物足りず、伊東の語る言葉も何かが欠けていた。 平助は探した。 何だ、何が、どこにある-? そうしているうちに、季節は巡り、秋を越えた。 そして運命が動いた。 伊東が近藤に呼びだされ、そして殺された。 その事実にいきり立つ仲間達と共に平助は立ち上がった。 そうしている間も平助の心は欠けていた。 だが今はそれを考えている場合ではない。 油小路に捨て置かれているという伊東の体を… おそらくは土方の手の者たちが、すなわち旧の仲間達が鬼となって待つ油小路へと。 「鬼…」 ふっと平助が呟くと、誰かが言った。 「そうだ、奴等は鬼だ!!」 だが、平助の呟くのはそうではない。 伊東を殺された怒りがそう言わせるのではなく、何かが平助の口を借りて出たという感じだった。 「…鬼…」 平助は、もう一度呟いて走り出した。 …鬼と、なるために。 暗い暗い夜道に月明かりが影を作る。 暗闇の中に浮かぶ影とは一体何なのだろうか? それは心から伸びる影なのか? それとも誰かの光に当てられて逃げる心なのか。 平助の足下にもあるそれは、彼の心の闇を思わせた。 そして、道の真ん中に捨てられた伊東の体の影は、薄かった。 平助の胸を、ドクン…と一つの鐘が打つ。 一歩一歩伊東に近づく度に、彼の心の鐘は打たれていく。 365回打たれたら、何かが変わるだろうか? 何かが始まるだろうか? そして、平助は伊東の顔を見た。 その瞬間、平助は笑った。 覗き込む伊東の顔。 血の気を失い、血の海に沈み、そこに漂う伊東の命。 そこには命が流れていたのだ。 池田屋で凝縮された命。 飲み屋の帰り道に際まで追いつめられた命。 流れ出てそこに固まる命。 「これだ」 平助は笑う。 「これだったんだ」 平助は笑う。 「僕が求めていたものは」 平助は笑う。 「この」 平助は笑う。 「目に見える、命」 平助は、伊東の死体に接吻をした。 彼の世界が、闇の黒から血の赤へと反転した瞬間だった。 それから、殺意がそこに集中して、いくつかの命が散った。 その中に平助もいたのかもしれないが… 彼は自分の命が流れていく様子を恍惚とした表情で眺めていた。 「藤堂さんは…もう、線を越えてしまった」 そう呟いた沖田の声を思いだしながら、土方は言った。 「藤堂にとどめを」 と。 |
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