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その人は、にっこり笑うと土臭い顏で言った。 「この手で、しっかり漬け込むんだよ」 右手にきゅうりを、左手には茄子を持ったその姿は、とてもじゃないが新撰組の一員とは思えなかった。 「けどよぉ、源さん。どうも俺じゃいけねぇや」 原田は鼻の頭に糠を付けた状態で井上を見た。 何を思ったか突然一緒に漬物を漬けようと言い出した原田に、井上は苦笑すると手拭いで鼻を拭ってやる。 「左之は力を込めすぎる。この手の平を使って、優しく優しくでもしっかりと寝かせてやるのさ」 「俺の手じゃでかすぎるのかねぇ」 首を傾げる原田に背後から声がかかった。 「女の手でも十分出来る作業だぜ?」 「あ、新八っつぁん」 振り返るとそこには巡察戻りと思われる永倉が、隊服を脱ぎながら笑っていた。 彼は原田の手元にあった出来上がりと思われる茄子をつまむと、ひょいっと口に運んだ。 「ああっ俺の大切な初娘をっ」 「娘?」 井上が呆れて笑う。 「うっ!!」 見上げる二人の前で、永倉がぐっと咽を詰らせた。 彼は慌てて水を取りに行く。 そして口の中を濯いで一息つくと、原田に振り返った。 「しょっぺぇっ!!!」 その簡潔な感想に、原田と井上は顏を見合わせて笑った。 京都に来てからどれ程が経っただろう。 原田は井上の漬物が大好きだった。 井上は賄い方では無いから漬物係でも何でもないのだが、これは彼の趣味のようなものか。 江戸にいた頃からの習慣が今でも続いている。 京の味付けになかなか味覚が合わなかった彼らは、井上の漬物を好んだ。 土方とて例外ではない。 だから原田はこっそりと土方の膳に乗る漬物を、井上作から自分作の物へとすり替えたのである。 「新八っつぁんの味覚じゃあてにならねぇ」 「何だと」 こっそりと土方の食事を覗き見る二人。 そう小声で言い合う二人の向こうで、土方がひょいっとキュウリの漬物を口に運んだ。 「……………」 「……………」 黙ってそれを見つめる二人。 土方の口がもぐもぐと動いて…止まった。 止まってから彼は少し考え込んでそれを飲み込むと、おもむろに立ち上がった。 「………!?」 どきっとする二人を他所に、土方は表情こそいつものまま井上の元へと歩いていく。 「源さん」 ん?と自分の肩に手を置いた土方を見上げて、井上は首を傾げた。 「体の調子がおかしいのか?」 「は?」 土方の突然の質問に井上が目を丸くする。 その様子に原田と永倉はそ〜〜っとその場を立ち去った。 もちろん井上の体調は悪くは無く、味覚も狂って無かった。 土方はその時の漬物が原田作と知ると「源さんの具合が悪いのかと思っただろうが!」と怒ったが、ちゃんとその後で「塩味が強すぎる」との批評をくれた。 原田はそれからも懲りずに井上の漬物作業を見習って、自作の漬物を作っている。 そして自分の手を見ては、首を傾げるのだ。 「おかしぃな…塩やら何やら同じ量を使ってるのに…」 「お前馬鹿力だからな、野菜から嫌われているんだよ」 ひゃひゃひゃっと作業を見守りながら笑う永倉に睨みを返しつつ、原田は言った。 「やっぱり源さんの漬物が一番だな!」と。 そんな彼らの日常にも時は過ぎゆく。 天下の情勢は日々動きを変え、まるで空を流れる雲の如くであった。 一時として形を留めない上層部の意見と敵の勢力。 気付けば朝敵であったはずの敵軍に、錦旗がたなびいていた。 京都を不逞浪士として歩いていた輩が、今や官軍なのである。 それは信じがたい現実を、新撰組のみならず幕軍にもたらしていた。 「京より退去」 幕府軍が京を追われる? いつの間にか「官軍」が入れ替わっている現実に、幕府軍は一瞬理解が及ばなかった。 時代が入れ替わろうとしている。 自分たちの明るい未来が、暗い歴史の底へと追いやられようとしている。 負けるとは、そういう事だ。 退去とは、負けている事ではないのか。 勝っている時は、勿論人は強気でいられる。 が、一転してそれが負けに入ると、人々の志気は下がる。 受け入れがたい現実が、目の前に横たわり始める。 後に鳥羽伏見の戦いと呼ばれる戦の中、井上源三郎は被弾し果てていた。 幼い井上泰助という隊士がいる。 源三郎の甥だ。 その彼の腕に抱かれた塊が何なのか、原田が理解するのには一瞬の間が必要だった。 彼の持っている刀に見覚えがある事も、原田は一瞬失念していた。 「これは何だ?」 そんな言葉だけが胸をよぎる。 これは何だ? 目の前にある薄汚れた白布に包まれたこれは。 敵に追われて救助の手も遠く、歩く事さえ重いこの現実は何だ? 「…源…」 「井上源三郎は…死にました」 まだ幼い少年の声が、悲壮な決意で語る。 包みがはらりと取り除かれる。 そこにいたのは首だった。 井上源三郎であった者の…首だった。 「…………う…」 何かで殴られた様な衝撃が原田を襲った。 叫んだかもしれない。 泣いたかもしれない。 だが、多分それは原田の錯覚だった。 現実に目の前で大粒の涙を流しているのは…泰助だったから。 新撰組は大阪へ向かった。 その道のりは余りに重く、果てしなく遠い旅路に思えた。 井上の首は道中、運ぶのが困難になった為にとある寺の片隅に埋めた。 刀も一緒にである。 いつか、誰がここを省みてくれるだろう。 ここに井上という男が眠っている事を、誰が知っていてくれるだろう。 自分はここに再び立ち寄り、井上と再会出来るだろうか? 井上だけじゃない、今までに力尽きていった多くの仲間達と、いつか再会出来るだろうか。 誰か、この戦いの果てに自分たちを省みてくれるだろうか。 誰が、この屍を探し求めてくれるだろうか。 そんな事を考え続けた原田の胸に、ぽっかりと、穴が空いてしまった。 忘れ去られる恐怖。 それは死とは違うものか。 大阪の宿所は死の匂いに包まれていた。 ぽっかりと穴の空いた原田の胸に、その匂いは芳しく届いた。 力なく腰掛けた彼の目は、すでに何も見てはいない。 何かを見ていても、何かと認識する事が出来ないでいた。 疲れていたのだ。 ただボウッと彼はそこに佇み続けた。 足下から透けて消えていっても良いくらいだと、彼は思っていた。 だが。 「ほらよ」 ふいにかけられた声と共に、原田の前に差し出されたのは、白い握り飯だった。 「島田の野郎に握らせたら、でかすぎだ」 そう呟きながら原田の隣にどかっと腰を下ろしたのは、永倉だった。 「なら小さいのと変えますかね?」と背後から島田の声がする。 「俺の胃袋には小さいくらいだっ」 「じゃあ黙って食って下さい」 べーっと舌を出す永倉に、べーっと舌を出し返す島田。 原田の手に渡された握り飯からは、ほのかな香りが漂っていた。 「食え。武士は食わねどとは言うが、腹が減っては戦は出来ねぇの方が正しい!」 「……ああ」 隣で語る永倉の言葉に頷きながら、原田は無意識に握り飯の匂いを嗅いでいた。 …生きている。 「源さんの漬物がありゃ最高なのにな」 ぽそりと永倉が言った。 その言葉を聞いた途端、原田の視界が滲んで歪んだ。 次から次へと溢れてくる涙が頬を伝う。 忘れるはずがない。 忘れられるはずがない。 「……げ、源さんっ…源さんの…漬物が食いてぇ…っ!」 原田の咽から涙声があがるのを、永倉は黙って聞いていた。 原田は流れ続ける涙を止める事も出来ずに、しゃくり上げて語った。 「なのに…なのっに…手が…源さんの手が無ぇっ!!!」 たまらずに顏を俯けた原田の頭を、永倉の武骨な手がガシガシと撫でた。 「そうだな」 「…もう…食えねぇっ…っ」 「…そうだな」 「何で…何で…俺の手じゃ駄目なんだよっ!! 源さんの…手じゃなきゃ…」 「…ああ、そうだな」 永倉の手は休むことなく、原田の頭にあった。 そして彼は原田を見ずに正面を見据えたまま、言った。 「泣ききっちまえ」と。 「皆泣いてる。恥ずかしい事は無いさ」と…。 原田がはっと顏を上げた時、永倉の頬にも一筋の涙が伝っていた。 振り返れば皆、泣いている。 源さんだけじゃない。 沢山の仲間を失った。 その悲しみに今、耐えている。 島田の握る、涙味の握り飯を口に運びながら、皆、泣いている。 泣いてくれる仲間がいる。 沢山の、仲間がいる…。 原田は手にしたままだった握り飯を、がつがつと口にした。 一気に平らげた。 まだ生きている。 その生きている姿を、仲間達の姿を眼に映そう。 自分の流した涙が、誰かの魂の救いになるように願いながら。 そして誰かが自分の為に泣いてくれるのなら…死すらも怖くはないだろう。 死は忘却ではないのだから。 原田は涙を流し続けながら指に残った米粒を唇ですくい、正面を見据えた。 |
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