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一歩二歩三歩…かつかつと鳴る下駄の音。 すり足の雪駄の音に混じって、響く乾いた音。 新八は懐に入れていた手を出して、傍らを行く少年隊士の背を叩いた。 「先に帰れ」 そう呟かれた声を聞いた時、少年の隣に新八の姿はもう無かった。 荒々しく立ち上がった原田を、土方が諌める。 「どこに行く気だ?」 腕組みをしたまま厳しく見上げれば、原田は上気させた顏を向けた。 「新八を助けに行く!」 「だから、どこに?」 「どこだって良い!京中をしらみつぶしにして…」 「阿呆」 唾を飛ばして叫ぶ左之に、土方は深い溜息をついた。 「そんな事をすれば、生きてるものも殺されるぞ」 土方のその発言に、同じ部屋に座る人々も皆同意するが如く俯いた。 沖田も斎藤も、藤堂も井上も…皆難しい顏で口を閉ざす。その中で一人、まだ大人になりきれない体を更に小さくして震えている隊士がいた。 この少年が真っ青な顏で、屯所に飛び帰ってきたのが少し前の事。 「永倉隊長が、隊長が…!!」 相当に混乱していただろう彼を抱えて島田が副長室に飛び込まねば、彼の混乱は屯所中に伝染していただろう。 二番隊隊長・永倉がさらわれた。 冗談の様なその出来事を証明するが如く、少年隊士の手には永倉の差し料が残されていた。 斬りあったのは間違いない。 だが死体も無く、帰還も無い。 「監察方が行方を追っている。今は待て、左之」 土方の淡々とした物言いに、血管を浮かせながら原田はどすんとあぐらをかいた。 その衝撃で、少年隊士が更に縮こまる。 土方は原田を少し睨むと、少年に言った。 「君が小さくなる事はない。部屋に戻っているかね」 しかし、少年は即座に首を左右に振った。部屋に戻ったら様々な隊士から質問攻めにあうだろう。 少年の胸に閉ざしておくには、大きすぎる出来事だ。かと言って、軽々しくは喋れない。 沖田は背後の障子を、小さく開けた。 京の空を、どす黒い雲が覆っている。 「……雨が…」 沖田の言葉を合図にしたかのように、いきなりの土砂降りが耳を襲った。 永倉は神道無念流の皆伝持ちである。 隊内でも一二を争う剣の使い手である彼は、活躍と共に恨みも相当に買っていた。 それはどの幹部とて同じ事だが…原田には不安がある。 座す一同の中で斎藤と少年を除けば、新八を含め全員試衛館一派と言って良かった。 しかし常日頃、新八は近藤・土方に対してやや批判的な言動を取る事があったのである。 からりとした新八の性格故か、試衛館仲間としての立場からか、表立って処罰や対立があるわけではない。 だが…この機会に乗じて、処分を試みたとしたら? 「…………っち!」 原田は苛立たしく立ち上がった。 また土方の視線が飛んでくる。 「厠だ!!」 吐き捨てる様に言って、原田は廊下へ出た。 ドスドスドスと、つい行動が荒くなる。 副長室の様子を探っていたらしい平隊士達が、怖いものでも見る目で原田を見つめていた。 強く睨めば、すぐに部屋に飛び戻る。 「…くそ!」 あの人ならやりかねん。 脳裏に浮かぶ冷徹な土方の顔に、原田は被りを振った。 厠から出ると、斎藤がいた。 いつも通りの涼しい顔で、切れ長の目が空を眺めている。 さっきから振りだした雨は、一向に止む気配を見せずに屋根を叩く。 「…飛び出しゃしないかって、見張りに来たのか?」 「出れば斬る気だったよ」 おはよう、と言う位の軽さで出た返事に、原田の目が固まる。 その瞬間、雷鳴が京の空を切り裂いた。 強い雷の光を受けても、斎藤の顔は変わらない。 ぴくりとも動かない冷たい顏に、原田の顔が逆に歪んでいく。 「誰を斬るって?」 「お前さんをだ。馬鹿をされては…困る」 まるで反比例するように、冷たさを増す斎藤の横顔に、般若になっていく原田の横顔。 「仲間を…友を思うことが、馬鹿だと言うのか?」 「友情ゴッコがしたいのなら、他所でやれ」 続く雷鳴。 光る横顔。 ギラリと、原田の怒りで歪んだ瞳が光った。 「…付き合いの短いてめぇは、判らねぇかもしれないがなぁ」 「………」 「俺にとっちゃかけがえのねぇ親友なんだよ!!」 叫ぶのではない、絞り出すような低い怒声に、斎藤は少ししてから言った。 「あんた達の付き合いの長さなど、知らん」 ドドン…また、稲光が縦に伸びた瞬間、原田が動いていた。 手は刀に、斎藤もまた刀に手を添えて原田の方へ一歩踏み出した。 二人の刀が鞘から抜かれる、その時… 「そこまでですよ」 二人の間に、沖田が割って入っていた。 手をそれぞれの刀を取った手元に寄せ、沖田は笑っていた。 「それを抜いたら…お二人とも切腹ですよ」 その笑顔に、原田は拍子抜けするものを感じた。 いつだってこの沖田ってヤツは、にこにこと場違いな程に軽い空気を醸し出しているのだ。 斎藤は、やや意外といった顔つきで暫く固まっていた。 「斎藤さんも…ね。戻りましょう」 沖田に背を押され、斎藤はようやくいつもの顏に戻っていた。 障子を開けた途端、土方の冷たい声が雷鳴に被って響く。 「ご苦労だったな、総司」 「いえいえ。三人で雷を眺めていたんですよ」 軽やかに座る沖田に続いて部屋に入り、原田は土方に尋ねた。 「監察は?」 「まだだ」 相変わらず腕組みをしたまま、土方は首も動かさずに答えた。 舌打ちをすると、井上が諌めるような目を送ってくる。 その隣りでは、藤堂が眠ったかのように目を瞑っていた。 長い長い沈黙。 雷鳴はまだ続き、雨の音ばかりが部屋に響く。 原田は苛々と部屋中を見渡す。 腕組みをしたまま動かない土方、空を眺めている沖田、冷たいほどの無表情の斎藤、眠ったかの様な藤堂、幾らか疲れた様子で力の抜けた井上。 新八を、心配しているのだろうか? そんな不安と不満が、原田の胸に渦巻く。 どす黒い感情がぐるぐると体中を駆け巡り、原田の胸を締めつける。 どこにいる…新八…どこにいるんだっ!!! ぎりっと噛みしめた唇に、赤い血が滲んだ。 力を抜けば目から涙が溢れそうになる。 黒い予感。暗い気配。落ちていた刀。生死の判らぬ時間。轟く雷鳴。地を叩く雨。 どれもこれもが原田の不安をかき立てていた。 さっと沖田が障子から離れた。 素早く山崎が部屋に入り込む。 その姿を横目に睨む土方に、彼は小声で言った。 「見つけました。案内致します」 ごく短い言葉が、切羽詰まった事態を思わせた。 誰もが無言で立ち上がる中、堪らず原田は山崎の肩を掴んでいた。 「生きてるのか!?」 山崎はほんの少しだけ、頷いた。 それだけで十分だった。 駆け出した原田に続く面々の中、一緒に来ようとする少年を土方は止めた。 「君は残っていろ」 しかし、少年はやはり首を横に振った。 「ご一緒させて下さい」 そう見上げる瞳が充血しているのを見て、土方は頷きも何もせず無言で駆け出していた。 少年が追ってくる事を止めもせずに。 農家の集まる集落の外れ。 小川の流れる音が普段なら長閑なのだろうが、今日ばかりは荒れ狂う龍の如くだ。 まだ止まない雷雨の中を、原田達は一つの小屋目指して忍んでいた。 そして、互いの阿吽の呼吸でもって中に飛び込む。 するとそこには… 「あ、左之」 存外に大して傷ついた様子もない新八の姿があった。 その間の抜けた声にどれ程安堵したか判らないが、原田はびしょ濡れになった姿で声を張り上げていた。 「くぉおのぉおお〜〜〜!!」 原田を先頭に小屋になだれ込めば、差して広くもない土間一つの部屋に十数人の男達が。 両手を後ろ手に縛られていた永倉が、咄嗟に男達の股下に滑り込む。 その動きを目で追ってしまった男の首が、横にずれて飛ぶ。 「新八を確保しろ!」 「言われないでも!!」 首の無くなった体を盾に、刃物の雨をかわしていた新八の前に原田が立つ。 しかしそんな事をしないでも、あっという間に男達は倒れ、激しく吹き込む雨が大量の血を川に追いやっていた。 原田がゆっくり振り返ると、ちょっと照れ臭そうな顏で新八が笑った。 「世話かけちまった」 照れ臭そうに呟く新八を、原田は黙って抱きしめていた。 それこそ力いっぱい、空気が抜けて密度が濃くなる程に。 その感動の再会に、沖田がやっぱり軽い声をかける。 「原田さん、原田さん、永倉さんが死にかかってます」 「…へ?」 とんとんと、背中を叩かれて抱く力を弱めると、ひょろひょろと新八が崩れ落ちた。 「うわ〜〜!! 新八っつぁん、どっか怪我でも!?」 「た、たった今窒息するかと思った…」 その言葉にほっと吐息を漏らすと、沖田がこっそりと耳元で呟いた。 「後で斎藤さんに謝った方がいいですよ」と。 原田が眉をしかめて振り向くと、沖田はにこにこと「土方さんにもね」と笑った。 訝しむ原田を他所に、土方が新八に近寄った。 「何があった?」 「俺に、新選組を裏切って仲間になれと」 大丈夫か? の一言も無い土方を睨む原田の前で、しゃがみ込んでいた新八に土方が手を伸ばした。 それを頼って立ち上がった新八が、土方の手を見る。 「…爪が剥がれてますが?」 「けっ。気のせいだ」 少し顏を赤らめて指を隠す土方。 沖田がそんな彼に歩み寄って、おかしそうに囁いた。 「ず〜っと、怒りを込めて腕組みしてたんですもんね。力入れ過ぎで爪が剥がれちゃうくらい」 そしてチラッと自分を向いた沖田の視線で、原田は気付いた。 「……そんなに…心配して…?」 「当たり前だろうが!」 痛いはずの手で拳を作り、土方が原田をド突いた。 「永倉隊長!!」 新八に少年隊士が飛び付くのを見ながら、原田はチラリと斎藤を見た。 すると彼も、心底ホッとしたのか先程より目元が柔らかい。 …いや、いつもの彼の目に戻っていた。 「斎藤さんが屯所で刀に手をかけるなんて、異常事態ですよ」 ふふふふっと笑う総司の声に、原田は冷や汗をかき始める。 「見ろ平助の目、真っ赤じゃ」 「黙っててよ、源さんったら!!」 井上のちくりに、藤堂が真っ赤な目で睨みを飛ばす。 ああ、この目を隠す為にずっと目をつむっていたのか…。 原田の冷や汗が増える。 「儂はもう、あの部屋の空気で死にそうだったわい」 そう言って無事だった新八を見る井上も、ほっと穏やかな顔を見せていた。 新八は一同に礼を述べてから、簡単に語った。 「いや、俺が近藤さんや土方さんと反目しているって、連中完全に信じ込んでましたよ」 「それで、お前さんを引き抜こうって考えたのか」 「悪い趣味だぜ。元仲間同士で斬り合いしろってんだぜ」 むっつりと考えこむ土方に、新八はからりと笑った。 その傍らでは、少年隊士が目を真っ赤にして新八にしがみついていた。 「…いるな、まだ。屯所に間者が」 断言する土方の声に、それぞれが重く頷く。 そんな中で土方が少年の頭をポンポンと叩いた。 「最初はこいつも疑ったんだが…」 その言葉を聞いた途端、少年の顔が真っ青に染まりビクッと震える。 「俺達の厳しい空気の中に留まるは、ここまで着いてくるは…お前さんは違うなって判ったよ。市村」 しかし土方の言葉の続きに、少年-市村はにっこりと微笑んだ。 そんな一件落着かと和む空気の中、一人素直に笑えない男がいた。 「どうした、左之?」 きょとんと視線を向けてくる新八に、原田は声も出ない。 皆それぞれが新八を心配し、その不安や怒りを押し殺していた中で、彼は仲間を疑ってしまった罪悪感に苦しんでいたのである。 事情の判らない新八はおいて、他の面々が帰ろうと言い出す。 そして、一人ひとり原田の肩を叩いては歩き出した。 「ま、良かったじゃないか、左之」と井上が。 「安心したっしょ、原田さん」と藤堂が。 「………ま、そういう事だ」と斎藤が。 だくだくと汗を流す原田に、土方がゆっくりと肩に手を置く。 「近藤さんもなぁ、大変だったんだよ。閉じ込めておくのに」 土方はそう言うと、嫌になる程の笑みを見せてから背を向けた。 最後に沖田が、やっぱり意味あり気に笑いながら歩き去る。 「………どうしたんだよ、左之…?」 全員が背を向けてから、新八が本当に不思議そうに尋ねた。 すると原田はブルブルと震え… 「俺が悪かったよ〜〜〜!!」 空に向かって叫んでいた。 そんな彼を笑う彼らの頭上で、いつの間にか雨が止み、早く流れる雲の隙間から青空が覗く。 そしてあっという間に雨上がり特有の、むんっとした風が頬を撫でた。 夏が、訪れる寸前の出来事だった。 |
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