ツライイタイツライ

照りつける華

川面に浮かぶ落ち葉に、小鳥がさっと舞い降りた。
その頼りない地面を一瞬蹴って、その小鳥はまた冷たい空へと飛んでいく。
伊東はそれを眺めながら、屯所までの道を歩いていた。
供も付けずに町を歩く。
土方辺りが聞いたら眉をしかめるだろうか。
「……くだらないね…」
伊東はその想像も、土方の反応も、全てを含めてくだらないと思った。


伊東が新選組に入った時、初めに思った事も同じではなかったかと思う。
熱心に自分を説く藤堂の若い瞳も、将軍を慕う近藤の眼差しも、京都で顏を合わせた土方の情熱も。
それぞれが、それぞれの方向を向いていて、実に…くだらなかった。



ならば何故、自分は誘いに乗り新選組に入ったのか。
そう問われれば、彼はいつでも答える。…胸の内で。




世の中全てがくだらないからさ。





伊東が壬生の屯所の門をくぐると、山南が出迎えてくれた。
最近、同室の彼は顔色がすぐれない。
体の調子が悪いのでは?と尋ねてみるが、彼は弱々しく微笑んで顏を横にふるばかりだった。
「今日は調子は良いんですか?」
「ええ、いや、いつまでも休んでいたら、土方君達に申し訳ないから」
山南はそう、ちょっと切なげに笑う。
いっそ、皮肉に笑ってみれば、体の調子も快方に向かうのではないかと伊東は考える。
遅れて入った彼でも判るほどに、土方による山南の扱いは目に余るものがあった。
ここに存在する「山南」という男を、「見えるいないもの」扱いしている。
それを言えば、山南が傷つくだろう。
伊東は口にしなかった。
が、山南は人の気配に鋭敏な男だ。
「私の病と土方君は関係ないですよ」
ぼそりと笑われてしまった。
「山南さん…」
見れば、背を少し丸めてゲホゲホと咳をする山南を、伊東はくだらないとは思わなかった。
山南がこの屯所の中で、唯一、くだらなくは無いものだった。



新選組は左幕の組織だ。
その新選組にあって、伊東は平然と明確に尊皇の意志を表明した。
得意の弁舌でもって近藤を翻弄して。
土方は「詭弁」に気付いただろう。
あの男は近藤よりも頭が切れる。
だが、それは賢いとか優れているという意味ではない。
世の中は、頭が切れる輩ばかりでは回らないものだ。
そして今、その世の中がくだらない。
…とすれば、面白くするしかない。
伊東は、日々抱いていた倦怠感を自ら打破すべく、この組織に潜り込んだのである。


そう、目的は組織の一部となって働くことではない。
そして土方が思うような、新選組を使っての尊王攘夷ではない。
伊東は、ただ面白い気分になりたいだけなのだ。



近藤に呼ばれ少し話をした帰り、彼は道場に足を向けてみた。
近藤の話とは、屯所の移転についてだ。
だが、実質その件を取り仕切るのは土方だろう。
「あの御仁はそれで満足だからなぁ」
伊東の呟きに、近藤の部屋を出てから合流した内海が笑う。
「なら今の時間は無駄ですか」
「…そうでもない」
滅多に差し出がましい口を聞かない内海が、伊東の方へ視線を送る。
伊東は口元に扇子を当てながら、内海を見もせずに言った。
「あの人が、僕に話をしたがっている、という所が重要なんだよ」
「局長の心に入り込もうというのですか?」
生真面目に内海が尋ねる。
伊東はやっと、その内海を横目で見て笑った。
「あの土方君が不愉快になるのさ」と。
「趣味の悪い」
苦笑する内海に伊東は続けた。
「土方君も相当に趣味の悪い事をしているじゃないか」
伊東は道場まで辿り着くと、楽しげに中を覗き込み、そして内海に手を振った。
お供はここまでで良いよ、という事らしい。
内海は内心で「山南総長の事か」と納得していた。



道場に伊東が入ると、空気が目に見えて変わった。
新参者とはいえ、幹部である。
その上、北辰一刀流の皆伝者とくれば、若輩者にとっては憧れの対象だろう。
伊東はにっこりと微笑んで、稽古に励む平隊士達にこまめに声をかけていった。その笑みが意外に重要なのを伊東は心得ている。
日々、土方の厳しい眼差しに耐えている者にとって、この伊東の土方に勝るとも劣らない美丈夫の微笑は魅力的に過ぎた。
伊東の人気は、うなぎ登りと言って良かった。
「伊東参謀の剣は綺麗ですな」
三番隊隊長の斎藤が呟く。
隊内で三指に入る使い手の彼の言葉に、伊東は首を傾げた。
「褒め言葉かな?」
「土方副長の剣は怖いですから」
答えになっていないような返事である。
が、伊東は優しく微笑むと、斎藤に小声で語りかけた。
「今度一緒に酒でもいかがかな?」
斎藤は無言で頷いた。



山南は伊東に「それは止めた方がいい」と言った。
部屋の中での小声の会話は、多分障子に耳をこすりつけても聞こえないだろう。
青白い顏をした山南に、伊東は何でもないという顏をして微笑む。
「何故? 」
「斎藤君は危険だ」
山南が言っているのは、伊東が斎藤を仲間に引き込もうとしている事だった。
何の仲間か。
山南は知っている。
伊東から聞かされていたから。
それは、新選組から分離する計画。
表向きは別動隊のように、真実は分離独立して倒幕を目指すものだ。
その仲間に、元々の仲間の他に、生え抜きの新選組幹部を引き込みたかった。
土方の羽を一枚でも多く引き抜きたいのである。
それも表向きは新選組を弱体化させる為に、真実は伊東の面白半分からであった。
伊東は、くだらないものから山南を守りたくなっていた。
守るという言葉が正しいかどうかは判らない。
が、伊東から見て、山南は実に面白い男だった。
「永倉君でも、良い」
「…ああ、でも永倉君は近藤さんや土方君からは離れられても、お上には忠誠を誓っている」
「彼は松前藩の出でしたか…でも、斎藤君はそうでも無いんじゃ?」
「彼は…」
山南が口ごもる。
伊東はそんな山南の肩を叩いた。
「大丈夫、私もいきなりは切りだしませんよ」
そう笑えば山南が安心すると思って。



山南とは、面白い男だ。
実に…くだらなくない、素晴らしい。
彼に比べれば、土方など山賊程度か。
これまで生きてきて、これまで様々な人間を見てきて、こんなに面白い男に出会ったのは初めてだ。
彼は…死を恐れている。
この、武士と言えば死をも厭わない時代に。
主君のためならば追い腹さえ切るような者がいる時代に。
山南が死を恐れていると感じとった時、伊東は嬉しくなったのを覚えている。
腕の無い若造が死に怯えるのはつまらない。
が、彼は文武両道を誇り、そして幕府を慕っている。
きっと戦ともなれば大活躍できるだろう男が、根性も座り経験も積んだ男が、死を恐れる。
「ああ、この男は正しい」
伊東はそう思った。
土方の様に二言目には「切腹」等と言っている印象が付いている男は、死を恐れもしない、その時には堂々と死んでいくのだろう。
だが、伊東は思う。
人は死を恐れるのが当たり前だ。
それを隠し見栄を張り怯えながら死んでいくのが、大抵の本当だろう。
が、山南は違う。
彼は死を恐れ、それを超越している。
恐れと同時に恐れていないのだ。
素晴らしい精神力だ。
この男の死に様をこの目で見てみたい…と伊東は思うようになっていた。



伊東は心からの微笑を浮かべて言う。
「大丈夫、土方君にはばれないようにやりますよ」
「伊東さん…本当に、やるのですね…」
「私は、あなたの体が心配なんです」
これも、本音だ。
土方がいる限り、山南の病は重くなるばかりだろう。
あの男が、山南を亡き者にしようとしている。
あの男の存在が、山南を追いつめ追いやってしまう。
「伊東さん、土方君は…」
「大丈夫、あなたは大丈夫です」
伊東の微笑に、山南がもう何を言う事もなかった。




そして、時は過ぎ、伊東に思いも寄らない事が起きたのである。





朝起きれば、同室の山南の姿はもう無かった。
脱走。
その単語を聞いて、伊東に何が言えただろう?
追っ手を差し向けるという土方の冷たい声を、伊東はただ呆然と聞いていた。
放心する彼に、内海が駆け寄ってくる。
「伊東さん!山南さんは何故…!?」
「あ、ああ、聞いていたのか? …何故、何故だろう…?」
伊東の分離行動で、山南は土方から開放されるはずだったのに。
何故、自ら彼の間合いに飛び込んでいくのか。
脱走?
それは、副長が処断を言い渡す十分な理由になる。
何故、土方に自らの首を差し出すのだ!
伊東は唇を噛んだ。



山南が連れ戻されたのは、翌日の事だった。
戻ってきた彼の表情は晴れ晴れとして、彼と共に戻ってきた追っ手役の沖田の方が、顔色が青かった。
伊東が口を挟む余地も無く、山南に処分が下る。
-切腹。
伊東は走った。
走って山南に面会しようとしたが、それはかなわなかった。
そして…




山南は見事に果ててみせた。




伊東の目の前で、彼は死んだ。
それは、伊東の見てみたいと思った、彼の死に様だったはずだった。
ごろりとあらぬ方を見る山南の顏。
その瞳には、もう何も映っていない。
なのに、視線を感じる。
伊東を見ている。
山南が、伊東に何か言っている。
だが…伊東には聞けなかった。
思わずぼろぼろと流れる涙を押さえて、伊東は山南の前から逃げ出した。





あれはなんだ?
人の死を見るのは初めてじゃない。
だが、今のは一体何だ?
山南が死んだ。
彼は死を恐れ、そしてそれを乗り越え、自らの腹を割いた。
それは、伊東が見たかった死に様だったか?
いや、何か違う…
でも、違わない。
古今に例を見ないほど、素晴らしい切腹。
素晴らしい切腹!?
だが、あれは…
あの最後の山南の顏は…
あの顏は…!



「伊東参謀!」
その声に、伊東ははっと振り返った。
するとそこには山南の介錯人を努めた、沖田が返り血も生々しい姿で立っていた。
周囲に他に人影はなかった。
今、屯所は異様な雰囲気に包まれている。
青白い顏をして沖田が伊東を見つめる。
何か…?と流れる涙もそのままに見つめ返す伊東に、彼は言った。
「山南さんはあなたの死を教えてくれたんですよ」と。
伊東は一瞬、沖田が言っている事の意味が判らなかった。
いや、考えても判らない。
「あなたは山南さんに自分を見ていたんでしょう!?」
「……何?」
珍しく声を荒げた沖田に、伊東が呆けた顔をする。
沖田はいきなり伊東の胸ぐらを掴むと、間近に顏を近づけて唸る様に言った。
「あなたは、自分が死ぬことなどカケラも考えていないんでしょう? 」
「……僕が、死ぬ?」
その伊東の声に、沖田が顏をしかめた。
本当に珍しい事だが、彼も気が立っているらしい。
「あなたは山南さんが好きだったんじゃない。山南さんに自分を重ねて…自分を愛しているだけだったんだ」
自分が?
山南に自分を?
唯一、くだらなくない、面白いと思った男に自分を?
いや、もしかして…
「それが、どれだけ山南さんを追いつめたか…」
ギリ…と血の滲むような視線を向け、沖田は手を離した。
伊東は土方が、山南を「見えるいないもの」にしていると思った。
だが、伊東が山南にした事とは…




「山南さんは…僕だった?」




会話しているのに、会話していない。
見ているのに、見ていない。
あくまで語る相手は自分であり、見える相手は自分である。
そこに山南がいるのに、伊東もまた、山南を見ていなかった…



そう、最後に見た山南の頭…その顏は………自分の顔だった。





人が死を恐れるのは、自分がいなくなるから。
いなくなるという事は、自分が認識されなくなるということ。
伊東は最初から、誰も認識などしていなかった。
何故なら、彼にとって世の中とは自分であり、面白いのは自分だけだったから。
山南は自分を見ていない伊東に…何を見ていたのだろう。
山南を拒絶していた土方でさえ、山南を山南として認識していた。
認識しているからこそ、拒絶出来るのだ。




伊東がした事は…山南に死後を見せる事だったのか。




「次は、あなたの番だ」
そう呟いて去る沖田の背中に、薄い日の光が差す。





「大丈夫、あなたは大丈夫」
そう言ったのはいつだったか。
大丈夫…あなたは大丈夫。
そう、僕が死ぬことなどありえないから…




伊東は初めて、全てに恐怖を覚えた。








□ブラウザバックプリーズ□

2008.6.27☆来夢

眠るように優しく緩やかに




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