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空が高い。 風から熱が消え、冷気が入り込む。 照りつける太陽が遠ざかる頃、季節は秋の深まりを告げていた。 斎藤はいつも通り、無表情なまま黒谷から屯所までの道のりを一人歩いていた。 壬生の屯所は京都の田舎にある。 斎藤は淡々と過ぎゆく街を眺めるでもなく見つめながら、ふと、壬生寺へ足を向けた。 特に何と思ったわけではなく、ただ気持ちの良い風にもう少し当たっていたかった。 屯所に着くのはその後で良い。 斎藤が壬生寺の門をくぐったそこに沖田がいる事も、またいつも通りの事だった。 子供たちの姿が無い。 おや…と斎藤は思うが口には出さない。 彼は境内でぽつんと一人佇み、小石を蹴る沖田の側に歩み寄った。 「珍しいな」 「…斎藤さんの気まぐれも、珍しい」 「俺はいつだって気まぐれだ」 斎藤の登場に驚くでもなく、沖田は笑った。 また肌の色が少し白く…いや、青白くなっている。 斎藤は沖田の傍らに立ち、境内をぐるりと見渡した。やはり子供の姿がない。 いつもなら沖田と子供達がここで遊んでいるのに。今日は沖田しかいない。 「…大丈夫なのか?」 斎藤が尋ねる言葉に、沖田はクスリと笑った。 「斎藤さんは言葉が少ない」と沖田は笑う。 彼はポーンと小石を蹴り飛ばした。その袴から覗く足が細い。 「何が『珍し』くて、何が『大丈夫なのか』なんですか?」 「判っているなら説明は必要ない」 斎藤は沖田を誘うようにして、境内の石積みに腰をかけた。 沖田も黙ってそれに従い、斎藤の隣にこしかけようとした。 ふわりと風が足下をすくっていく。 思わず差し出された斎藤の手に、沖田がはっと目を見開く。 そして僅かに苦笑してから、その手を借りずに一人で腰をかけた。 「身体は…大丈夫なんです」 沖田は言うが、斎藤にはそうは見えなかった。 沖田は労咳で倒れた。 池田屋での戦いの最中の事だ。 本人は大したことは無いと言い張るが、その言葉とは裏腹に彼の外見がどんどんとやつれていく。 それでも彼は新選組一番組組長だった。 それを疑う者は無いが、風にさえ倒れそうな身体も疑うべくもなく目の前にあった。 「身体以外か」 「…叫ばれました」 ふふ…と沖田は笑う。 この青年はよく笑う。 死期を悟った者の笑みだろうか…斎藤には判らなかった。 沖田は斎藤の横顔をちらりと見た。 斎藤の長い髪の毛が風に揺れる。その流れの中に、彼の長いまつ毛が瞬いていた。 「誰に?」 「……女子に」 「…?」 「池田屋で、私が斬り殺した男の…身内の方だそうです」 沖田の倒れた池田屋で、沖田に倒された男の身内。 それが何だというのか。 「私を許さないと。お上を許さないと。我々の為に苦しんでいるのだと」 「くだらないな」 「そうですか」 よく聞く話だと斎藤は思った。 誰かを斬れば誰かが泣く。それは戦いの常だ。そうやってお互いに傷つけあって、この国は出来上がった。 斎藤はだから、斬った相手の家族の事は考えないようにしている。 考えても仕方ない。 斬らねば斬られる。そして自分の為に誰かが泣くとしたら、相手は自分を斬るのをためらうだろうか。 それは敗者の言い訳になる。 「私はねぇ…」 沖田は境内の木々を眺めながら笑うように呟いた。 「判らなくなりましたよ」 「その女子…どうしたんだ?」 「私が一歩寄ったら、走って逃げていきました。とって食うわけじゃないのにねぇ」 クスクスと笑う沖田の肩が薄い。 それがケホケホに変わるのはこの頃の「いつも通り」だった。 「ねぇ、斎藤さん」 「何だ」 「誰が悪いんですかねぇ?」 斎藤が沖田の顔を見ると、沖田は笑みを浮かべたまま刀の鍔を弾いていた。 「池田屋で私たちはこの街を救ったはずでした。…でも、私たちが人斬りした部分ばかりが広まって…。恨まれるのは判ります。だけど、何でそうなったのかを誰も考えてくれない」 クク…と沖田の肩が揺れた。 笑っているのか? 斎藤からは見えない。 「私たちが血を流したとは、誰も思ってくれないんでしょうか?」 ぐぐ…と沖田の体が内側に傾く。 斎藤は慌てて沖田の体を抱き寄せた。 その瞬間…グハッと沖田の胸元に赤い色が広がった。 斎藤のかけた手にもそれがかかる。 沖田の両手は、そこから血が溢れたかのような有り様だ。 沖田の喀血。 「しっかりしろ」 「…私にも…」 「歩けるのか?」 斎藤が背中をさすると、沖田の薄くなった身体がその手に伝わってくる。 斎藤はとてつもなく悲しくなった。 そして沖田は呟いた。 「…私達にも…血は流れているのに…ね…」 斎藤はその場に沖田を横たえて、手拭いを水で浸してくる。 血で汚れた顔を拭いてやると、沖田は子供のような笑みをこぼした。 「……江戸の家族が心配なんです」 心配なのはあんたの身体だ、という言葉を斎藤は飲み込む。 「私の為に、家族が危険な目に遭わねば良いと…」 「大丈夫だ」 「争いたい人は、自分の土地で争わなきゃいけませんよね。他人を巻き込んじゃいけないや」 「だが、誰も自分の家は安全にしておきたいものさ」 斎藤の言葉に、沖田の目がすふぅ〜と閉じる。 斎藤は一瞬焦った。 まるでその閉じた瞳が、再び開かないような気がしたからだ。 だが、沖田は生きていた。 「血を流す時代は…終りにしないと」 そう呟くと、また少し血を吐いた。 斎藤はそれを拭ってやりながら考えていた。 しかし… 『血の匂いのしない玉座は、多分永久に存在しないだろう…』と。 人は自分の身に危険が迫って初めて、危機が訪れたと大騒ぎをする。 自分が安全な場所にある時に、人は人に優しくなるのだ。 安全な場所からかけられる言葉に、危険地帯にいる人間は頷かない。 そして危険地帯での真実は、勝者に作られるのだ…と。 池田屋の戦いは新選組の勝利だった。 だが、それが世間にそう評価されないという事は、風はもう幕府からは吹いていないという事だ。 勢いは敵にある。 勝たねば、被害は訴えられないのである。 それが…戦というものだ。 沖田はすーすーと静かな寝息を立て始めていた。 額に降れるとかなり熱い。 斎藤は沖田をゆっくりと背にしょうと、屯所への道を選んだ。 夜…沖田は目覚めない。 斎藤は廊下で一人月を眺めていた。 風呂には入ったが、沖田の吐いた血がまだ手に残っている感触があった。 嫌なのでは無いが、つい両手を握ったり開いたりしてしまう。 「総司を運んでくれたってな。ありがとうよ、斎藤」 土方がいつのまにか側にいた。 「またガキ共と遊んで無理しやがったのか?」 「いや…ちょっと心が弱くなってるみたいで…」 斎藤は、傍らに立ったまま座らずに言う土方に、月を眺めたまま境内での事を語った。 土方はそれを黙って聞いていたが、全てを聞き終わった時に迷い無く言った。 「人の土地を荒らしているのは誰なのかは、明らかだ。俺達は奴等が焼こうとしたこの街を救った。あるのはその事実だけだ。評判なんざどうでもいい」 「…その通りですが…」 「誰が正しいのか悪いのかは、今は決められねぇ。ただ、やったらやられる。それだけは確かだ」 断固とした口調に、斎藤は土方の辛さを感じた。 土方はそう言わざるを得ないのだ。 ここまで浪士を取り締まり斬ってきた新選組に、今更沖田の言うような平和論は通用しない。 望んで流した血では無いとしても、もう後戻りは出来ないのである。 やったらやられる。 その連鎖を誰が止めるのか。 止めることが出来るのか。 それが出来るとしたら…。 斎藤は己の手を見た。 そこに広がるのは沖田の血だけではない。様々な浪士達の血が、そこに染みついていた。 それが出来るのは…美しい手の持ち主だろう。 ただ、事実はきちんと伝えていかねばならない。 その辛さと厳しさと悔しさと痛みとを、きちんと伝えなければ…歴史は繰り返される。 黙り込む斎藤の頭を、土方がポンと叩いて去っていった。 驚いてその去り行く後ろ姿を見ると、まるで斎藤の視線に気付いたかのように土方が言った。 「明日からまた忙しいんだ。早く休め!」と。 思わず立ち上がった斎藤に、今度は脇から声がかかる。 見ると永倉と原田が桶に水やら手拭いやらを持って、こちらに来ていた。 「おお、斎藤。今日は総司が大変だったみたいだな」 「…永倉さん…何を?」 その手に持つに注目する斎藤の肩を、原田がポンポンと叩いた。 「俺達は明日は遅番だから、総司の看病してやろうと思ってさ」 「な〜に、アイツの事だから一晩寝りゃ、また元気になるだろうけどな」 がはははは…と賑やかに笑う二人。 「あ、お前は明日早番だろ? 早く休みな」 「そうそ、それがお前の今やるべきこと」 斎藤の返事など待たずに、好き放題喋ってから二人は沖田の眠る部屋へと入っていった。 中から病人を相手にするとは思えない、明るい声が聞こえる。 斎藤は苦笑した。 そして「今やるべきことか…」と呟くと、素直に自室に引き上げることにした。 斎藤がやるべきことは、斎藤にしか出来ないことでもある。 きっと、いつかこの連鎖を止める人物が現れるのだろう。 だがそれは、斎藤じゃない。 沖田でも無い。 それはきっと…。 |
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