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ギィ…と建て付けの悪い戸が、渋々と開く音がした。 暗く空気の澱んだ室内に、薄く日が差し込む。 ゆっくりとその暗闇の中に足を進めると、空気が生き返るのが判った。 だが、この部屋にもはや生者は戻らない。 「……野村…」 相馬はその部屋で、小さく小さく呟いた。 普通の声を出すことさえも、今は出来そうもない。 その名を大きく口にすれば、受け入れたくない現実が今にも襲ってきそうで。 振り返れば、その戸口に死神が立っていそうで。 「…の…」 相馬の膝が落ちた。 誰もいない部屋。 野村利三郎が使っていた部屋。 主を失ったその部屋で、相馬は膝をつき、そして両手もついた。 どうやってこの体を支えたら良いのだろう。 当たり前の事が判らなくなる程に、彼は…泣いた。 旧幕府軍による、宮古湾の新政府軍艦隊を襲撃するという計画は、失敗に終わった。 失敗です。 そう言うのは簡単だ。 その短い言葉の中に、どれほどの命が詰っているのだろう。 どれほどの悲しみと後悔が詰っているのだろう。 この宮古湾海戦において、野村利三郎が戦死していた。 慶応三年の新選組入隊以来、様々な仲間の死にあってきた。 その中には局長である近藤勇さえも含まれる。 それが武士のさだめとでもいうかのように、沢山の人が死んでいった。 相手を殺さねば自分が殺されるという中で、いくつもの命が消え、そしてこの手で消しもしてきた。 なのに、今更何を悲しむのだ。 床に付いた両手を睨み、相馬は思った。 そこにぽたぽたと落ちていく暖かな雫に、相馬は思ったのだ。 覚悟していたはずだ。 いつ死んでも悔いは無いと。 京都にいた頃が酷く遠く感じる。 新選組がまだ、新選組でありえたあの頃。 相馬は古株の、永倉と原田の会話を聞いたことがあった。 「新八っつぁんよう…先に死んでも俺を迎えに来るなよ」 「いかねぇよ」 縁側で二人、仲良く並んで足の指の爪を切りながらの会話だった。 後ろから見ると、丸まった背が二つ並んでいておかしくもある。 「俺は行っちゃうけど」 「お前なんぞを背負ってたら、重たくて動けねぇよ」 ひひひ…と笑う原田に、永倉がふんっと鼻で笑った。 チラッと二人は視線を合わせると、またもぞもぞと爪を切り始める。 そして永倉が呟く。 「来るなよ」 「新八こそ」 互いの顏も見ないままに呟きあう二人。 相馬は不思議な思いでそれを聞いていた。 変な会話…と。 首を傾げる相馬に、ふいに声がかかったのもその時だった。 「お前も来るなよ」 「わっ!?」 いきなり耳元で声がして、驚きあがった相馬が振り返る。するとそこにはニヤニヤと笑う野村の姿が。 彼もそこで永倉と原田の会話を聞いていたのだろうか。 もう一度繰り返して彼は言った。 「絶対来るなよ!俺、女と酒以外は歓迎しないから」 しっしっと手を払う野村。 いきなり現れていきなり何を!?と相馬が眉をしかめると、野村が彼を通り越して永倉に声をかけた。 「土方さんが呼んでますぜ」と。 「お〜う」 のっしりと永倉が立ち上がる。 その横顔に走る影に、相馬は再び眉をしかめた。 「…今度は誰の介錯だか…」 ボソっとした原田の声に、相馬がはっと永倉の立ち去る背中を追う。 彼はもうかなり先を歩いていたが、その背中が先ほどの背中とは明らかに違うことに、相馬は気付いた。 「最近の土方さんの用って言ったら、そればっかさ」 また原田が呟いたが、相馬には何も言えなかった。 どちらかといえば局長付きの相馬にとって、土方とは殆ど口を聞く機会も無い。 それは新選組に付きまとう、死の気配とも遠いという事だった。 「介錯…」 誰かが死ぬという事。 野村が小さく溜息をついて、相馬の肩をポンと叩いた。 「来るなよ」 もう一度念を押すと、彼はそのまま去っていった。 三月なのに、北の地に春は遠かった。 今はもういない野村の部屋で、相馬は一人窓の外を見ていた。 今なら言えるかもしれない。 「来てくれ」と。 言っちゃいけないとは判っている。 だが、挫けそうになる心が囁く。 「野村…俺も連れていけ」と。 「来るなよ」に込められた「死ぬなよ」の言葉。 勇ましく戦死する事が、武士のさだめだと思っていた。 何を後悔するものかと思っていた。 だが、やはり思うのだ。 「野村…何故死んだ」 死んで欲しくないと。 仲間が死ぬ位なら、自分が身代わりになりたいと。 勇ましく誰かを殺して死ぬくらいなら、誰かを生かして死にたいと。 今更遅いかもしれない。 事実、もはや野村はもういない。 そして今までにも沢山の仲間が死んでいった。 今更遅いかもしれない。 だが、やはり悲しいのだ。 武士らしく漢らしくとはいえど、やはり悲しみは変わらない。 「野村…」 そう呟けば、ここには笑顔があった。 「よう、どうしたよ?」 「野村」 そう呼びかければ、明るい声が返ってきた。 「寒いな〜おい」 「野村…っ!」 そう叫べば、必ず何かあったのに。 今はもう、この部屋には何も響かない。 もう、あの声は返ってこないのである。 何故、死んだのだ。 何故、俺をおいて死んでいったのだ。 どうして俺は、ここに一人生きているのだ。 たった一人の仲間の死に嘆き悲しむ俺は、武士では無いのだろうか。 たった一人の友の死に嘆き悲しむ事は…おかしいのだろうか。 野村の死は、なんの為だったのだろうか。 近藤の死で感じた悲しみと、野村の死で感じた悲しみの差は何だろうか。 ふと、誰かの気配を背中に感じた。 ドキリと、相馬の胸が一瞬強く打たれる。 まさか、馬鹿な、そんなはずは、有りえない… 「の…」 振り返った相馬の目に映ったのは、開きっぱなしの戸と、そこに立ち尽くす… 土方の姿だった。 挨拶をする事も忘れ、相馬は土方を見つめ続けた。 そしてその涙に濡れた相馬の顔を、土方もまた見つめ続けた。 暫くの沈黙の後に、ふっと土方の唇が薄く開く。 「………」 何かを言おうとした。 だが、土方は言わなかった。 開いた唇をすぐにキュッと閉じると、彼は何も言わずに去っていった。 ただ気配だけを残して、彼は去っていった。 呆然と、その土方の消えた戸口を見ながら相馬は思う。 土方が呟こうとした言葉。 唇が形作ろうとした言葉。 「すまない」 間違いはないだろう。 だが言わなかった。 土方の声にはならなかった。 それが相馬にとっては… ありがたかった。 謝られてしまったら、野村の死が無駄になってしまう。 野村の死が、何の為にもならなかった事になってしまう。 失敗の名の元に、汚点にされてしまう。 そうじゃない。 野村の死は、決して無駄にしてはならないのである。 謝られて、野村の死を終りにされては… そこで、相馬は気付いた。 土方もまた、近藤を失っていたということに。 失念していた。 土方は、近藤を失い、沖田を失い、様々な仲間を失ってなおここにいる。 あらゆる死を背負いここに立っている。 本当は迎えに来て欲しいのかも知れない。 だが、それを望んではいけないのだ。 仲間の死を、友の死を生かすために。 その死を背負い、戦い続けなければならないのだ。 仲間の死を、終りにしない為に。 死を、始まりにする為に。 相馬は涙を拭った。 今は主を失った部屋で、相馬は立ち上がり、そして心の中で呟いた。 「…迎えに来るなよ、野村」と。 俺は生きる。 お前に生かされた命なら、なおさらのこと。 生きて生き抜いて、必ず見届けてやる。 この命をかけた戦いの行方を。 そして、最後まで見届けた時には… 「お前や皆の元へ行こう」 命が輪廻するというのなら、また、共に生きられる事を祈って。 |
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