明治二年三月
北の、まだ春の気配が薄い空に、雄叫びがあがった。
だがそれは、誰に聞こえる事も無く、ただ空に霧散するだけだった…。



人は、その痛みにどこまで耐えられますか



永 遠

永遠

ギィ…と建て付けの悪い戸が、渋々と開く音がした。
暗く空気の澱んだ室内に、薄く日が差し込む。
ゆっくりとその暗闇の中に足を進めると、空気が生き返るのが判った。
だが、この部屋にもはや生者は戻らない。



「……野村…」
相馬はその部屋で、小さく小さく呟いた。
普通の声を出すことさえも、今は出来そうもない。
その名を大きく口にすれば、受け入れたくない現実が今にも襲ってきそうで。
振り返れば、その戸口に死神が立っていそうで。
「…の…」
相馬の膝が落ちた。
誰もいない部屋。
野村利三郎が使っていた部屋。
主を失ったその部屋で、相馬は膝をつき、そして両手もついた。
どうやってこの体を支えたら良いのだろう。
当たり前の事が判らなくなる程に、彼は…泣いた。



旧幕府軍による、宮古湾の新政府軍艦隊を襲撃するという計画は、失敗に終わった。


失敗です。
そう言うのは簡単だ。


その短い言葉の中に、どれほどの命が詰っているのだろう。
どれほどの悲しみと後悔が詰っているのだろう。


この宮古湾海戦において、野村利三郎が戦死していた。




慶応三年の新選組入隊以来、様々な仲間の死にあってきた。
その中には局長である近藤勇さえも含まれる。
それが武士のさだめとでもいうかのように、沢山の人が死んでいった。
相手を殺さねば自分が殺されるという中で、いくつもの命が消え、そしてこの手で消しもしてきた。
なのに、今更何を悲しむのだ。
床に付いた両手を睨み、相馬は思った。
そこにぽたぽたと落ちていく暖かな雫に、相馬は思ったのだ。
覚悟していたはずだ。
いつ死んでも悔いは無いと。



京都にいた頃が酷く遠く感じる。
新選組がまだ、新選組でありえたあの頃。
相馬は古株の、永倉と原田の会話を聞いたことがあった。
「新八っつぁんよう…先に死んでも俺を迎えに来るなよ」
「いかねぇよ」
縁側で二人、仲良く並んで足の指の爪を切りながらの会話だった。
後ろから見ると、丸まった背が二つ並んでいておかしくもある。
「俺は行っちゃうけど」
「お前なんぞを背負ってたら、重たくて動けねぇよ」
ひひひ…と笑う原田に、永倉がふんっと鼻で笑った。
チラッと二人は視線を合わせると、またもぞもぞと爪を切り始める。
そして永倉が呟く。
「来るなよ」
「新八こそ」
互いの顏も見ないままに呟きあう二人。
相馬は不思議な思いでそれを聞いていた。
変な会話…と。



首を傾げる相馬に、ふいに声がかかったのもその時だった。
「お前も来るなよ」
「わっ!?」
いきなり耳元で声がして、驚きあがった相馬が振り返る。するとそこにはニヤニヤと笑う野村の姿が。
彼もそこで永倉と原田の会話を聞いていたのだろうか。
もう一度繰り返して彼は言った。
「絶対来るなよ!俺、女と酒以外は歓迎しないから」
しっしっと手を払う野村。
いきなり現れていきなり何を!?と相馬が眉をしかめると、野村が彼を通り越して永倉に声をかけた。
「土方さんが呼んでますぜ」と。
「お〜う」
のっしりと永倉が立ち上がる。
その横顔に走る影に、相馬は再び眉をしかめた。



「…今度は誰の介錯だか…」
ボソっとした原田の声に、相馬がはっと永倉の立ち去る背中を追う。
彼はもうかなり先を歩いていたが、その背中が先ほどの背中とは明らかに違うことに、相馬は気付いた。
「最近の土方さんの用って言ったら、そればっかさ」
また原田が呟いたが、相馬には何も言えなかった。
どちらかといえば局長付きの相馬にとって、土方とは殆ど口を聞く機会も無い。
それは新選組に付きまとう、死の気配とも遠いという事だった。
「介錯…」
誰かが死ぬという事。
野村が小さく溜息をついて、相馬の肩をポンと叩いた。
「来るなよ」
もう一度念を押すと、彼はそのまま去っていった。





三月なのに、北の地に春は遠かった。
今はもういない野村の部屋で、相馬は一人窓の外を見ていた。
今なら言えるかもしれない。
「来てくれ」と。
言っちゃいけないとは判っている。
だが、挫けそうになる心が囁く。
「野村…俺も連れていけ」と。



「来るなよ」に込められた「死ぬなよ」の言葉。
勇ましく戦死する事が、武士のさだめだと思っていた。
何を後悔するものかと思っていた。



だが、やはり思うのだ。
「野村…何故死んだ」



死んで欲しくないと。
仲間が死ぬ位なら、自分が身代わりになりたいと。
勇ましく誰かを殺して死ぬくらいなら、誰かを生かして死にたいと。
今更遅いかもしれない。
事実、もはや野村はもういない。
そして今までにも沢山の仲間が死んでいった。
今更遅いかもしれない。
だが、やはり悲しいのだ。
武士らしく漢らしくとはいえど、やはり悲しみは変わらない。



「野村…」
そう呟けば、ここには笑顔があった。
「よう、どうしたよ?」


「野村」
そう呼びかければ、明るい声が返ってきた。
「寒いな〜おい」


「野村…っ!」
そう叫べば、必ず何かあったのに。





今はもう、この部屋には何も響かない。


もう、あの声は返ってこないのである。



何故、死んだのだ。
何故、俺をおいて死んでいったのだ。
どうして俺は、ここに一人生きているのだ。
たった一人の仲間の死に嘆き悲しむ俺は、武士では無いのだろうか。
たった一人の友の死に嘆き悲しむ事は…おかしいのだろうか。
野村の死は、なんの為だったのだろうか。


近藤の死で感じた悲しみと、野村の死で感じた悲しみの差は何だろうか。




ふと、誰かの気配を背中に感じた。
ドキリと、相馬の胸が一瞬強く打たれる。
まさか、馬鹿な、そんなはずは、有りえない…
「の…」
振り返った相馬の目に映ったのは、開きっぱなしの戸と、そこに立ち尽くす…



土方の姿だった。



挨拶をする事も忘れ、相馬は土方を見つめ続けた。
そしてその涙に濡れた相馬の顔を、土方もまた見つめ続けた。
暫くの沈黙の後に、ふっと土方の唇が薄く開く。
「………」
何かを言おうとした。
だが、土方は言わなかった。
開いた唇をすぐにキュッと閉じると、彼は何も言わずに去っていった。
ただ気配だけを残して、彼は去っていった。



呆然と、その土方の消えた戸口を見ながら相馬は思う。
土方が呟こうとした言葉。
唇が形作ろうとした言葉。
「すまない」
間違いはないだろう。
だが言わなかった。
土方の声にはならなかった。
それが相馬にとっては…



ありがたかった。



謝られてしまったら、野村の死が無駄になってしまう。
野村の死が、何の為にもならなかった事になってしまう。
失敗の名の元に、汚点にされてしまう。
そうじゃない。
野村の死は、決して無駄にしてはならないのである。


謝られて、野村の死を終りにされては…



そこで、相馬は気付いた。
土方もまた、近藤を失っていたということに。
失念していた。
土方は、近藤を失い、沖田を失い、様々な仲間を失ってなおここにいる。
あらゆる死を背負いここに立っている。



本当は迎えに来て欲しいのかも知れない。
だが、それを望んではいけないのだ。
仲間の死を、友の死を生かすために。
その死を背負い、戦い続けなければならないのだ。
仲間の死を、終りにしない為に。


死を、始まりにする為に。





相馬は涙を拭った。
今は主を失った部屋で、相馬は立ち上がり、そして心の中で呟いた。
「…迎えに来るなよ、野村」と。



俺は生きる。
お前に生かされた命なら、なおさらのこと。
生きて生き抜いて、必ず見届けてやる。
この命をかけた戦いの行方を。



そして、最後まで見届けた時には…



「お前や皆の元へ行こう」




命が輪廻するというのなら、また、共に生きられる事を祈って。












□ブラウザバックプリーズ□

2008.6.9☆来夢

そして命は連鎖する

実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。