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秋の気配の漂う頃、新八は小さな小さな墓の前に数本の華を添えた。 花売りから求めたのではなく、自分で野から摘んできたものだ。 彼は猫のように茶目っ気のある目をそっと閉じて、そこに手を合わせた。 その小さな墓に眠る、大きな志を持っていた男-芹沢鴨に… 芹沢の行状がとことん乱暴を極め、とうとう上の方の眉間にまで皴を刻ませた事は新八も知っていた。 ただでさえ乱暴者の集団とされる新撰組に合って、局長からがその風聞である。 隊のイメージが良くなるはずがなかった。 「…あ?何だって?」 井戸端で稽古の汗を流していた新八は、ふいにかけらえた総司の言葉を一瞬聞きのがした。 が、総司は嫌な顏一つみせず、それどころかニコニコと首を傾げた。この弟分はいつだってそうだった。 「芹沢局長と永倉さんって、どっちが強いんでしょうね?」 「そりゃあ芹沢さんだろうよ」 「でも、永倉さんも神道無念流の皆伝持ちでしょう? 」 新八は総司に背中を向けて手ぬぐいで顏をぬぐった。 「言い方を変えようか。酒が入っていないなら俺の勝ちさ。でも酒が入っていたら別だ」 「酒が入っていたら…手強いですか」 「勝てねぇなぁ」 総司が何故そんな事をきくのか、新八は考えなかった。 相手が説明するならよし、しないのなら仕方ない。無理にそれを探ろうとするほどの気持ちは新八にはなかった。 「じゃあ…五分かな」 ぽそりと総司が呟いた。 その言葉に新八は再び総司の方を振り向いた。 「誰と誰が?」選択肢は総司・芹沢・自分の三人。 「永倉さんは頭が良すぎるそうですよ。土方さんが言ってた」 総司は新八の問いに添っていない返事を返すと、そのまま宿所へと戻っていった。 新八は一人井戸端でその後ろ姿を黙って見送った。 稽古は好きだ。 新八は純粋にそう思う。 「おらおら、そんな手じゃ相手に遊ばれてお終いだぞ!!!」 「芸妓になら遊ばれて〜〜っ」 平隊士達に稽古を付ける永倉の背中に、ふと背中を合わせてくる輩がいた。 熱気を帯びた体温が伝わってくる。新八は振り返らなかった。 「貸せる金は無いぞ」 「ひでぇや新八っつぁん。俺はただ新八っつぁんに遊んで欲しいだけだい」 声がでかいので、道場内の全員に丸聞こえである。 「左之」 「おうっやろうぜっ」 くるっと振り向くと相手も即座にこちらを向く。 新八よりも一回り大きい体の持ち主は原田左之助。彼が嬉しそうに竹刀を構えると、他の隊士達も面白げに笑った。 新八の遊び仲間でもある彼は、本来は槍使いなのに剣で新八を負かそうと必死なのだ。 「今日だけで5勝零敗だぜ、俺は…」 「おお〜永倉、ここにいたのか!」 ニヤリと竹刀を構えた新八に道場の入り口から声がかかる。 その声を聞いて途端に左之の顏が歪んだ。新八も判らないように眉を上げてそちらを向いた。 「どうだ一緒に飲みに行かんか?」 「芹沢局長」 おそらく新八よりも大きい左之よりも、更に大きい体格であろう男がそこにいた。 芹沢鴨である。 顏が赤いのは、すでに宿所で一杯ひっかけたからだろう。新八を誘うのはいつもの事だ。 新八は芹沢から妙に気に入られている。 「すみません、稽古中なのでまた。準備するにもかなりお待たせしてしまう」 「む〜構わんがね。最近稽古漬けじゃないか。-土方の命令か?」 「まさか」と新八は肩をすくめた。周囲の隊士達が不安そうな面持ちで事の成り行きを見守っている。 皆芹沢が恐ろしいのだ。土方とは別の意味で、彼の機嫌を損ねる事はすなわち死を意味する。 「…そうか。次は絶対だぞ」 「はい」 芹沢は簡単にひいた。 そして取り巻きに囲まれて道場を出る。 総司の背中が消えた頃、新八の肩を左之がぽんぽんと叩いた。 「本当に芹沢は…あんたの言葉だけは大人しく聞くな」 「馬鹿言ってんじゃねぇ」 新八は顏も向けずにそう呟いた。 左之は声がでかい。それが奇妙に彼を不安にさせた。 まるで総司の消えた方向から、土方の影が見える気がして。 芹沢が新八になついている…わけではない。 その逆ももちろん無い。 だが、芹沢は新八には親しみをもって接していた。 「芹沢先生…何を?」 夜、道場からの物音に気付いた新八がそこに顏をのぞかせると、そこには信じられない事に芹沢がいた。 一人で刀を抜いている。 「………」 「芹…」 「…っとぉーーーっっっ!!!!」 いきなりの気合い一閃、芹沢の刀が空を斬ってすてた。 一瞬新八の声がつまる。 なんていう剣筋か。 なんていう…美しさだ。 すっと音もなく芹沢の刀が戻る。そこで彼はやっと新八を振り向いた。 「な…にを?」 「んん? いや、なに…今日君の稽古を見て血が騒いだらしい」 そう言うと、芹沢はにこっと笑った。 まるで近所の幼子のような微笑で、つい今し方の剣の持ち主とは思えなかった。新八はふっと笑った。 芹沢も笑った。 2人は特に会話もせずに、ただ、それだけで笑いあった。 「芹沢先生…こちらでしたか」 ふいに氷の刃が2人の間を通り抜けた。 はっと見ればいつの間にか土方がそこに立ってこちらを見ている。 「何だ?」途端に芹沢が不機嫌になる。 「お手数ですが、本日の金策の件で…近藤局長がお話したいと」 「何の為にっ!」 土方はちらりと新八を見た。 「おいで願えませんか」 土方の冷たい感情のこもらない物言いに、芹沢のこめかみに血管がふつっと浮いた。が、新八が即座に声をかける。 「芹沢先生、足止めをしてしまい申し訳ありませんでした。私に構わずどうぞ…」 芹沢はその新八の声に、ふんっと息を一つ漏らすと「判った」と土方に応えて歩を進めた。 そして道場を出ていく芹沢の後に、土方が新八を見る。 その視線がきらりと、何かの意思を含んだ光を帯びた気が新八にはしたが、土方は何も言わずにそこを出ていった。 「……ったく…」 新八は天を仰いだ。 何か…嫌な歯車の音がし始めていた。 新八は知っていた。 芹沢は新八を信じているのではない。 新八の中に何かを重ね見ているだけにすぎないのだ。それが具体的に何かとは、新八にも言えない。 が、土方や近藤は決して持っていないもの。 現在彼を取り巻く連中も持っていないもの。 「君は…よく似ている」そんな事を言われた気もする。 幼くして鬼籍に入った弟君と似ていると言われた時、新八は苦笑したものだ。 「そんなに童顔ですかね」と。 それが良かったのか、何なのか。 新八には判らない。 ただ、芹沢のような男がいても良いんじゃないか、とは思う。 今は動乱の世だ。300年の徳川が揺れている。その風はどこから吹いているのだろう? 風向きを考えた時、きっとこうゆう男が風を起しているのだと新八は思う。 杓子定規に収まる男なら風は吹かない。風の吹かない水は腐るしかないのだ。そして様々な風が吹き集まり波を作り、大海を揺らす。 それが歴史というものだろう。 新八は先ほどの芹沢を真似て、剣を抜き空を払ってみた。 「てやーーっ!!!!」 ザクリ。 そんな手ごたえがあった。 だが、それが何を意味するのか、新八には判らなかった。 9月 その日はあいにくの雨だった。 肌寒くさえある夏の終りの雨。一雨毎に季節が移っていく。 彼らは一同で島原の角屋に押しかけていた。 夜を通しての宴会である。 珍しい事だが土方も穏やかに酒を飲んでいる。 もちろん近藤の側での話だが。 新八もしたたかに酔っていた。隣では左之が自慢の切腹後の傷を披露しているし、総司も斎藤も皆が皆陽気な顏で楽しみながら酒を飲んでいた。 その視界に芹沢の姿が映った。 いつもの取り巻きに囲まれている彼は、しかしその中の一人・新見が先日腹を斬ったからだろうか、顔色が冴えない。が、酒を飲めばそれも変わるのだろう。 その時ふいに、新八と芹沢の視線があった。 「………!」 それは一瞬の事だった。 が、新八はその時理解してしまった。 芹沢の斬ったものの正体を。 新八が腰を浮かした。 それに気付いた左之が素早く「新八?」とその袖を引く。 新八の視界の中で左之だけではなく、総司もちらりとこちらを見た。土方も近藤も……何だ? 芹沢も腰を浮かして「用足しだ」と怒鳴っている。 大騒ぎの中のそんな小さな2人の動きだ。 だが、それに反応する人々が機敏にすぎた。 新八にはそれだけで重大な発見をさせる。 「ちょっと…酔いを冷ましてくる」 「駄目だ、ここにいろ」 左之の小声が心を重たく打った。 この男が小声で忠告している。 「新八!」 だが新八はあえてその手を振りほどき、宴会場を後にした。 雨の音が廊下にも響く。 新八が出た廊下の先に、芹沢は静かに佇んでいた。 そして今宵は見えない月を寂しげに探すかのように、空を見上げていた。 そっと新八が近づく。 「……あなたはどこにいるんですかね?」 「…ふふ」 新八の問いに、芹沢はちょっとだけ笑った。 それは新八に、「気付いたか」と言っている風でもあった。 「まるで大きな子供じゃないですか。あなたは酒に頼りすぎる」 「…君は、見ていてくれたな」 芹沢の視線が新八の目を捉えた。 芹沢は素面に近かった。いや…素面だったのかもしれない。 「誰も彼もが見ていない俺を、君が見てくれていた」 「見てますよ、皆」 「いや、皆が見ているのは俺じゃあ無い」 芹沢はくくっと笑った。 「この狂気を伴った芹沢鴨しか、連中には見えないのさ」 やはり…新八は思った。 この人は孤独なのだ。 孤独に過ぎ、そしてその孤独の重さが彼を厚い繭に閉じこめてしまった。 そして彼はどうして自分を他人に見せたら良いのかが判らなくなってしまい…酒に頼った。 狂気の子供がいる場所は、砂上の楼閣の如く波に削られる脆いものでしかない。 夜、彼が一人で斬ったものは…孤独だったのだ。 「君は…本当に弟にそっくりだよ」 「こんな生意気そうな面をしてましたか?」 「目がなぁ、そっくりなんだ」 芹沢の瞳が新八の瞳を射ぬく。 「永倉、人は時に愚かであったほうが良いぞ」 「え?」 芹沢はどこからか響く呼び声に応えて身をかえす。 新八は最後の言葉の意味を問いただそうと、彼の方へ一歩進んだ。 「芹…」 芹沢が振り向いた。 「………」 新八が見る前で芹沢の口が開いた。 何かを言っている。 が、それは雨音に負けて新八の元までは届かなかった。 あいにくの雨…だった。 廊下を角に消えていく芹沢を追おうとした新八は、ふいに現れた左之によって留められた。 その気配に気付かなかった自分に驚きつつ、その真剣な眼差しにさらなる発見を強いられていた。 「何をする気だ」 「お前は酔ってるんだ、新八」 「酔ってねぇ!そこをどけっ!!」 しかし頑としてそこをどかない左之に、新八の耳に芹沢の声がした気がした。 「愚かであれ」 さ…と新八の全身から血の気が引いた。 まさか。 「ま…」 新八の言葉は全部は言えなかった。 その脳裏に浮かんだ恐ろしい想像が彼の身を縛ったのか、新八は左之のみぞおちへの拳を食らい倒れた。 ふっと力を失う新八の体を左之が受け止める。 逞しい左之の腕の中で、新八はもう一度だけ繰り返していた。 まさか…だが、その声はもう誰にも届かない。 左之は見慣れたはずの新八の顔を、まじまじと眺めた。 「島田」 左之が声をかけると島田は何事も無かったかのような顏で、廊下の向こうから姿を現した。 「新八は酔ってる。どこかの部屋で寝かしておいてくれ」 「判りました」 島田は何も尋ねずにただ渡された新八の体を軽々と抱き上げると、そのまま角屋の女に部屋を用意させながら姿を消した。 左之が静かにそれを見送った頃、雨はまた一段と強さをましてきていた。 そして、惨劇は起きた。 新八は眠っていた。 何か身のうちに疼く痛みを感じながら、誰かの叫びを聞きながら、彼は目を閉じていた。 そして…雨の音が聞こえた。 夜は全てを包み、雨は全てを溶かした。 何もかもが空気に消える頃、新八は目を開けた。 あまりにも静かな気配に、新八はぞっとする。 そして見れば枕元に島田が控えていた。 「……どれくらいだ」 「まだです」 「あれからどれ程の時間だ!!」 「あなたはまだ寝てなければいけない時間です」 その返答は新八の不安をより一層鮮明にさせる。 新八はもう何も聞かずに立ち上がった。そして大小を手に取り部屋を出ようとする。 が、当然のように島田が出口に立ち塞がった。 「何を知ってる」 「何も知りません」 島田は首を振った。 多分それは本当だろう。 彼は何も知らず、ただ左之に頼まれただけなのだろう。 そうでなければ…耐えられない。 「どかねば斬る」 「どうぞ」 「俺の腹をだ」 島田は溜息をついた。 「あなたは寝ているんです。夢のつもりで…行って下さい」 その深い溜息の後に島田は体をどけた。 雨が降っている。 暗やみに輝く光はすべて雨のものだ。そして行く手を遮るものも雨。 雨に顏をしかめながら、眠り人新八は駆けた。駆けて駆けてもう息もつかない頃、総司の言葉を思い出した。 「じゃあ…五分かな」 馬鹿野郎。 相手は五分と挑めば更なる力を発揮するんだ。 そして今、芹沢が賢い男である事を新八は祈った。 今だけ-賢くあってくれ。 雨はふいに人の形を隠したりもする。 雨はふいに人の叫びを隠したりもする。 暗闇の行く手に見えた人影に、新八は思わず吠えていた。 「うぉおおおーーーっ!!!」 それは青白い死神だった。 新八の前に立ちはだかったそれは、新八の体をいとも簡単に転がした。 視界がぐるりと回るのを新八は他人事のように感じていた。 そして鈍い痛みと、ついで真上から顏を体をうつ雨の粒に顏をしかめた。 こつ…と死神の足が新八の頭のところへ来る。 「芹沢はもういないぞ」 新八はそのどこかで悟っていた言葉に、やはり一瞬息を飲んだ。 「…正気か」 新八の問いに死神は答えない。 「何故だ、何故…」 「危険すぎる男だ」 「俺も殺せ!!」 「そうしようと思ったさ」 平然とそう行ってのける死神の顏を、新八は息を整えて見た。 相手はこの雨の中傘もささずに、新八同様体を天のつぶてにさらしながら彼を見下ろしていた。 「あの人は孤独だったんだ」 新八は目を閉じた。 「あんたが斬ったものはあの人じゃない、あの人を包む狂気を斬っただけだ」 「狂気は人を殺す」 「あんたが狂気だ」 「俺は人じゃねぇからな」 「俺達はあんたの何だ」 新八の問いに、相手の言葉はすぐには返ってこなかった。 その変わりに手ぬぐいが顏にかけられた。雨が直接は襲わなくなる。 そして立ち去ろうとする死神の足音とともに、返事は届いた。 「…だから、お前さんは斬れなかったのさ」 新八の頬を、雨の雫ではない透明な粒が伝った。 それは脆くも暖かい… 「…そりゃねぇだろう、土方さんよ…」 新八は声も泣く泣いた。 誰の為の涙かも、もう判らなかった。 新撰組局長・芹沢鴨が賊の手にかかったという報せは瞬く間に各地に飛んだ。 盛大な葬儀も、その後の賊の探索も、新しい組織編成も何もかも、新八は流れに身を委ねた。 芹沢を斬ったところで…と彼は思う。 芹沢を斬ったところで何が変わるわけでもない。 一度住み着いた狂気はそう簡単にはここを離れないだろう。 そう、着物に付いた血の染みがいつまでも存在を主張するように、この狂気は絶えず隊内を駆け巡る。 土方の足下を彩る。 「見せてもらいますよ」 新八は小さな墓に向かって呟いた。 土方の選んだ狂気の行き着く先を、見たいと思った。 そしていつか土方が自分も斬らなかった事を後悔する事があったなら… 「墓の下から笑ってやって下さいよ」 新八は笑った。 墓の向こうから左之が顏を出す。 この男にしては珍しく顔色がうかない。 その理由は判っていた。 きっとあの雨の夜、左之は刀を振るったのだろう。 この男の事だ。その事を新八に言わなかった事や当日の振る舞いを思って、情けない顏をしている。 「…新八」 「何だよ」 「…俺は、お前は斬りたく無かったんだ…」 「俺、寝てたからな」 ははっと新八は笑った。 そしてあの日、左之に殴られたみぞおちをさすって言う。 「ぐっすりと眠ってたさ」 「新八」 「あの人が食い止めていた獣は、暴れだした。もう…止められねえよ、俺達には。その背中にしがみついて行くだけだ」 新八は墓の前から立ち上がると、ふふっと笑いながら歩き始めた。 左之が何か問いたげに新八を見る。 新八はいたずらっけのある視線を左之に送り、そして空を見上げた。 それは秋空の様相を呈し、どこまでも高かった。 「どこまで行けば…果てが見えるんだろうな」 新八の呟きに、風が吹いた。 風はどこまでもこの地上を凪いでいった。 |
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