神よ告げよ、その願いの果てを

新しい歌

チィ…カタカタ…チィ…カタカタ…
小さな女の子の口が動いていた。
ふさふさとした赤毛の、青い目の女の子。
チィ…カタカタ…チィ…カタカタ…
まるで笑っているかのようなその口の動きに合わせて、幼いメロディと聞きなれない言葉が流れ出る。
単調だが懐かしくも感じる歌声がどこか可愛らしく響き、ドームを揺らした。
「…最後の人形は、オルゴールなのね」
十六夜の手の中で、女の子はカタカタと動き。そして、いつしかその動きも緩慢になり、プツ…と歌声は止まった。
「………ああ…」
伸ばしていた手を、宙でギュッと握りしめて、望月は頷いた。
手を伸ばしては、掴みそこねる。
目の前にしても、掴み損ねる。
何も掴めない手がここに残り、何かを掴めたかも知れない手が消えてしまう。
この手から零れ落ちたものは、誰の命なのだろうか…
望月は吐息を付いた。


目の前に崩れ落ちた、首の吹き飛んだ男を見ながら。






相沢園・イミグレーション・タイトルマッチ・イコン
キーワードは簡単だった。
相沢園の「あ」
イミグレーションの「い」
タイトルマッチの「た」
イコンの「い」
頭文字を並べただけの、たった四文字の言葉が正解だったのである。
真実は常に目の前にぶら下がり、気付かない人々を嘲笑し続けている。



有明の後頭部に取り付けられた爆弾は、キーワード入力直後に空気の抜ける様な音を立てて頭から零れる様に落下した。
一瞬、眩しい位の白い光を感じて、有明は思わず目を強く瞑った。それをゆっくりゆっくりと慣らしながら周囲を見回すと、心配そうな顔で自分を覗き込んでいる仲間達の姿が見えた。
もうイコンも、リミットも欠片ほどの余韻を残さずに消え去った。
「……取れたぁ…!」
そう呟いた瞬間、ぶわっと目頭が熱くなり、有明の視界が揺れた。
ぼろっと零れ落ちた大粒の涙は、生理的な反応かも知れない。だが、照れた様にそれを拭う有明を、誰も笑ったりはしなかった。頭に爆弾を抱えた時間、どれだけ辛かっただろうかと思えば、笑う事なんて誰に出来るだろう。
何より、全員が心底安堵していたのだ。
有明の、仲間の無事に。
「これでアポロンを逮捕出来ますね」
照れ臭そうに呟いた有明に、数人が頷こうとした、その時。
十六夜に連絡をしてやろうと携帯を握りしめた捜査員が、厳しい表情で唸るように言った。
「…アポロンは、死んだ」と。




アポロンの残された首の部分から、僅かに爆発物の残骸が見つかっていた。
飛び散った脳や頭蓋骨、細胞や肉片の合間合間に残された火薬は、アポロン特製のものではなく『市販』のものであるとも判った。
「…恐らくは、正解のキーワードが点火スイッチだったんだろう」
キーワードを間違えたり、タイムオーバーすればアポロンは死なず。
正解を入れた場合は、アポロンの頭が吹き飛ぶ。
「どうしてそんな真似を…」
「判るもんか…もう、誰にも判りはしない…。全部、奴自身が彼岸まで持ち去っちまったんだからな」
深い吐息を吐き出して、望月は十六夜の車の助手席から長閑な街の風景を眺めた。
相沢園無き後、アポロンの子供が託された施設の前。今はまだ苦悩を知らぬ子供たちの賑やかな声が跳ねる建物の前で、望月の周囲の空気だけが綺麗に停止していた。
その手には、アポロンが最後に残した赤毛の人形が握られている。
安全が確認された後で、それを貰い受けたいと望月が申し出たものだった。



「俺が殺したんですね」
無事な姿になって再会した有明の言葉に、望月は首を振った。横に。
「奴は…俺に見せたかったんだよ…俺の前で逝きたかったんだ」
最後の命がけのメッセージだったんだろう。
有明はただ、彼に近しい人間と言う事で引き金を引く指に選ばれてしまったに過ぎない。
「何を伝えたかったんでしょうか」
アポロンには確かに同情すべき点もあったかもしれないが、全ては身から出た錆だった。
そんな男が残した言葉。
「人は、忘れられたくないのさ」




会いたい。
その言葉を残して首を吹き飛ばした男の気持ちなんて、判るはずが無い。
だが、会いたいという気持ちそのものならば、判る気がした。
妻に、子に、誰かに。
会えない状態になって初めて気付く思いもある。それが手遅れな時もある。
全てに絶望し、己に絶望し、過去に絶望し、未来を望めなくなった時、人は何を思うのだろう。
判るはずが無い。
だが、会いたいという思いは判るのだ。
家に帰り、子供を胸に抱き、妻の笑顔を目にした瞬間に、理解するのだ。
守るべきものを、守れなかった瞬間に崩れた世界を。
もう一度再構築しようとしたが、守れずに焼けた両手が義手に変わる。
失われたものは二度と戻らない。
そう悟った瞬間の、男の絶望は。


会いたいという思いを理解した事が、アポロンの命を奪う結果となった。




誰がアポロンを殺したのだろうか。
キーワードを入れた有明か、間に合わなかった自分か、彼の妻子と彼の腕を焼いた炎か。
誰でも無い。
アポロンは自分に負けたのだ。
男として、夫として、父として。
「お前は間違っていた」
アポロンにそうはっきりと、告げることが出来る。
何があっても手を放してはいけなかったのだと。
何があっても諦めてはいけなかったのだと。
イコンの彼方になど、逃げてはいけなかったのだと。




アポロン神とは、太陽を司り、デルフィのその神殿においては神託が行われていたという。
お前はお告げを聞き間違えたのだ、現代のアポロンよ。
アポロンとは、太陽を司るだけではない。
幸運を、そして、子供をも司る神なのだ。
子供を守る事を諦めた時、お前は既にこの世を離れ、遠く彼岸の地に立ってしまっていたのだ。



望月は車から降り、一歩を踏み出した。
白い清浄な世界の中にいる、赤毛の女の子のところへと。
背後から見守る十六夜の視線を感じつつ、しっかりと背筋を伸ばして歩を進めた。
「これ、お父さんからの預かり物」
唐突に差しだされた女の子の人形に、赤毛を肩まで垂らした少女は目をくりくりとさせた。
白い肌にうっすら見えるそばかすが可愛らしい、お人形さんのような女の子。
自分そっくりな人形を躊躇いもなく腕に抱き、その子は笑った。
「わぁ、オルゴールのお人形!」
「そうだよ、お歌が流れるよ、ほら…」
背中にあるねじを数階回してやると、カタカタと人形が動き出し、神に捧げた歌声と音色が流れた。
耳慣れないその音にじっくりと耳を澄まし、少女は首を傾げた。
「知らないお歌」
「ギリシャの、音楽だって」
君の、故郷の音楽だよ、と伝えたかった。
女の子は「ふぅん」と頷いて、繰り返し繰り返し、幼い手つきでねじを回しては音楽を流した。
まるでその音が、身に染み込むのを感じているかのように、目を閉じて。
何度も、何度も。
そして、暫くして漸く目を開く。
少女はその美しい青い瞳を望月に向けて、ニッコリと笑った。
「新しいお歌、覚えるわ」
そう言って、人形を両手で高々と持ち上げて見せながら。





「アポロン、お前の事なんて忘れてやる」
遠ざかる女の子の背中に、その向こうにいるであろう男に、望月は言った。
「だが、罪の無い1人の少女の事は、ずっと忘れない」
忘れないさ。



車に戻った望月を、十六夜が黙って迎え入れた。
じっと顔を覗き込んでくる彼女に、望月がちょっとだけ眉根を寄せて顔を逸らせる。
「…何だよ」
「良い目になってる」
クスッと笑う彼女がキーを回す横で、望月は自分の顔を撫でていた。
また少し髭が伸びている。
「俺は逃げない」
「………ええ」
「…ずっと考えてたんだ、俺のせいで傷ついた娘にどんな顔をしたら良いのかと」
周囲の誰も彼もが口を揃えて言った、『お前のせいじゃない』と。
だが、確実に望月は娘を自分の運命に巻き込み、そして傷つけたのだ。アポロンと共に。
そしてアポロンの娘もまた、父親の運命に巻き込まれ傷つけられた。父と、望月とに。
失ったものは取り返せない。
起きてしまった事実もまた、取り消す事は神ですら不可能だ。
そう、イコンの彼方に泳ぎ着いたといしても、それは出来ない事なのだ。
だとしたら。
「受け止めるしかない」
自分が、受け止めずして誰が受け止めるというのだ。
娘に課せられた運命を、真っ向から受け止めてやる。
「俺は、逃げない」
望月の声に、十六夜が頷いていた。
口元に小さな笑みを浮かべて。



動き出した車が、小さな園から遠ざかっていく。
背景に埋もれて消えていく建物に、そこにいるだろう少女に、望月はそっと目を伏せた。




君はいつか知るだろう。
赤毛の人形に乗せた、父からのメッセージを。
会いたい。
もう決して叶うことの無いその願いを。



「新しいお歌、覚えるわ」



君の覚えた新しい歌は。
君のお父さんの、切ない歌声なのだと。









初出…2008.11.16☆来夢

□ブラウザバックプリーズ□

実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。