見えない線が世界を分ける

新しい歌

キィッとタイヤを焦しながら、十六夜がハンドルを握る車が急カーブを滑る。
シートベルトでは足りない支えを手で補い、望月は「そこを右だ!」とナビをした。
狭い路地を物凄いスピードで駆け抜ける車を見送るのは、生気のない老婆や猫ばかり。死んだような地区に、それはあったのだ。
「ギリシャ正教会…イコン?」
2人の説明に肌の色を真っ白にした有明が呟いた声は、今にも魂が抜けそうな弱々しさだった。
誰だってそうだ、自分の頭が爆破される恐怖とは尋常ではないだろう。
そんな彼に、更なる追い討ちをかけたもの。
「タイムリミットだと…!」
人の命を何だと思っているのか。
12時間の制限なんて、神ですら決める権限を持ち合わせていないだろう。
人は産まれた瞬間に、生きる権利を有するのだ。
その生を奪う権限なんて、誰も持ってはいない。
「くそ…っ」
唇を噛む望月の横で、十六夜は向かう先の教会について考えた。
市内にあるギリシャ正教会はたった一つ。あった事すら驚きだが、ある場所もまた驚きだった。
災害の爪痕を色濃く残す貧民街。
いや、それは教会のあるべきただし居場所なのかも知れないが。

急ブレーキで止まると同時に車から飛び出す2人。
手には勿論拳銃を用意して、同時に朽ち果てかけた正面扉の左右に立つ。石造りの建物は白かったはずの外壁が黄土色に染まり、雨染みやひび割れが幾何学模様の如く走っていた。木製の扉もいつかは色が付いていたのだろう。今はそれを忍ぶこともできない。
「静かだな」
「どっちかが裏手に回る?」
十六夜の提案に望月は暫く考えると、首を横に振った。
「いいや、どうせ踏み込まれるのは計算の内だろう。ただ爆弾人形がある可能性は高い」
「周辺住民の避難は無理よ。 誰がどこに住んでるのか判ったものじゃない…」
「なら、覚悟を決めて入るぞ」
2人は一度、互いに頷きあうと同時に扉を蹴破った。
「警察だ!!!」

「依頼を断られた?」
捜査員達が眉をしかめると、気障ったらしいスーツを着た男は肩を竦めながらも頷いた。彼らのバッジにびくびくと脅えながらも「粗茶ですが」と若い男がお茶を差し出してくる。それをちらりと眺めただけで、老練の捜査員はソファセットの向かいに座るスーツにもう一度確認した。
「確かに引退だと言って断ってきたのか」
「俺は最初、務所を爆破してくれってのが出来ないのかと思ったんだがね」
伸ばした襟足を払う男は、つまらなそうに説明した。
そしてつまらなそうな顔のまま、室内を軽く見回す。
広域指定暴力団の支部として近隣から恐れられているはずの事務所内は、今や数人の闖入者によって壊滅状態となっていた。突然のことに呆気にとられていた若頭を捕まえて、捜査員が言った一言は。
「スーツを台なしにしてやるぞ」である。
言った本人も、まさかそれで相手が素直になるとは思っていなかったのだが。
組内の勢力争いで邪魔な身内を塀の中で始末してしまおう、そう思ったらしいこの若頭がアポロンに依頼をしたという情報を掴み、お話を伺いに来た結果だった。それを掴まれただけでも、この若頭には命取りなのだろう。案外と素直に語った。
「俺はさぁ、自分たちでドンパチとか嫌なんだよ」
は〜っと溜息をつくスーツ男は「依頼はしたが断られたから悪くないだろ」と言い張っている。
「アポロンが引退…」
捜査員達は顔を見合わせた。
彼らに早くお引き取り願いたい若頭の口は更に続けた。
「聞いたらさ、ここ2,3年は依頼受けてないっていうじゃないか。は〜何だよ、せっかく良い花火師を見つけたと思ったのに…これかよ」
最後のこれかよ、はボロボロになった事務所と、組内での自分の今後に向けられていたらしい。

2,3年前から依頼を受けなくなったアポロン。
有明はその報告を署内の捜査本部で聞いた。出来る限り1人でいなくない。制限時間ギリギリまで自分も捜査に携わっていたかった。1人でじっとしていたら、気がおかしくなりそうなのだ。
仲間たちもそれが判っているから、彼と共にいる事を決意していた。
それにしても…と彼らは考える。
3年前には相沢園の園長が亡くなっている。
3年前…有明達の心を過るのは、望月の娘がアポロンの標的になった出来事だった。
望月の娘を狙ったアポロンに、何かがあったのだろうか。
「3年前に相沢園関係者が関わったと思われる事件・事故があったかどうか、判るりますか?」
「相沢園に絞ると厳しいかもしれんな。新浜市内…ギリシャ人に絞ってみるか?」
「頼みます」
頭を下げる有明の視界では、相変わらず命のカウントダウンが続いている。
じり…と嫌な汗をかく手を握りしめて、有明は視界の中のイコンを睨み続けた。
ヒントは揃っているのだが、判らない。
相沢園・イミグレーション・タイトルマッチ・イコン…何だ、何がある?
タイムリミットが0になった時、何が起こる?
不安に滲む胸を掻きむしりたい衝動を抑え込みながら、握り込む指の力を強くした。
とにかく今は動ける仲間からの連絡を貰い、キーワードを探るしかない。望月と十六夜が教会に向かったのだ、彼らが何かを掴んでくれる。
「3年前、相沢園の園長が亡くなる半年前に、市内でギリシャ人女性が火事で亡くなってるぞ」
「火事? そのギリシャ人女性ってのは…」
「ちょっと待て」
資料をPC検索していた捜査員は、目の前を走る文字に「そうだ、そうだよ!」と声を上げた。
「相沢園の卒園者だ!そして…」
「現在は転園した女の子の母親か!?」
「そうです!」
大丈夫だ、まだ繋がっている!
捜査員達が思わず抱きあわんばかりで叫んだ時、彼らの傍らで電話が鳴った。

『火事を起こしたのは、アポロンだ』
当時の事を知るギリシャ人の卒園者を見つけた捜査員からの電話だった。
人捜しがそれほど簡単にいくのは稀だ。これは、相手から見つかってくれたと考えるべきだろう。
そう思った有明の胸を読んだ様に、彼は教えてくれた。
『アポロン本人から連絡が来たらしい。娘の面倒を頼みたいと』
相沢園から転園した娘を尋ねた捜査員を、その人物は見ていたのだという。

いや、そもそも見ていたのは娘の事なのだろう。
「あいつは自分はもう本当に何もしてやれない、そう言った。だが、最後に一目会いに来るんじゃないかと思って、暇があればあの子の事を見てたんだ」
浅黒い肌に口ひげを生やした男は、逞しい体をやや丸めて語った。
「あいつはずっと…この3年の間、ずっと苦しんできた。彼女…妻と愛娘と、静かに暮らしていくはずだったと。それを壊したのは自分自身にほかならないと」
同じ3年間をアポロンの為に悩み過ごした男を知る捜査員は、冷淡に尋ねた。
「何があったんだ?」
男は大きな両手で顔を覆う。くもぐった声がその指の隙間から漏れだして捜査員の耳を打った。
「幼い娘が…あいつの仕事道具をいじくって…爆発が起きたんだ」

はっと、有明達は思わず目を見開いた。
目の前のイコンが一瞬消え、笑顔で荷物を受け取った望月の娘の両手が吹き飛ぶシーンを想像した。
アポロンは見たのだろうか、直接にその光景を。
望月は観たのだろうか、直接にその光景を。
『アポロンは請け負っていた仕事を終えて帰宅したところで、燃え盛る自宅を見たらしい。飛び込もうとした目の前で、娘を自分の方に放った妻が炎に包まれる様を…』
有明は見開いた目を、今度はぎゅっと閉じた。

消防車や警察車両が集まる中、手配犯であるとわかれば捕まってしまうアポロンは逃げた。
娘を抱えて妻の亡き骸を背に、街を走ったのである。
娘の指に覚えのある薬品の匂いを嗅ぎ取り、事態を理解したアポロンは娘を抱きしめただろう。
そして、己の両手を呪ったのだろう。
自分が作りだしてきた物で、娘が母を失い、己が妻を失い、妻は命を失った。
初めて後悔したのかもしれない。
初めて懺悔したのかもしれない。
何もかもを失った想いで、娘を胸に抱き飛び込んだ先は。
相沢園だったのか。

推察は当たった。
女の子の父親はアポロン。彼は自分が育ち、娘を預けた相沢園を最初のヒントに選んだのだ。
第2のヒントであるイミグレーションは、外人という意味だったのかもしれない。それとも遠い故郷へ帰るに帰れない現状を嘆いたものか。
そして、第3のヒントは…
「タイトルマッチはどうして…」
捜査員の呟く声に、有明も考えた。
気になったのは、タイトルマッチのリングに投げ込まれた人形。それを投げ込んだ義手。
繊細な爆弾を作っていたアポロンは生身の腕を持っているはず…。
「腕を失ったのか…?」
依頼を受けなくなったのは、実際に爆弾を作る事が出来なくなったからなのか。
だから、スイッチ式の威力もさほど強くない爆弾を相沢園に仕掛けた…それ位しか仕掛けられなかった。イミグレーションでは爆弾無し、タイトルマッチにはどこかで手に入れた閃光弾を使っただけなのか。
「そうだ、アポロンにはもう…爆弾は作れない…!」
「2人に連絡します」
捜査員が素早く言った。


望月と十六夜が飛び込んだ先は、薄暗い聖堂だった。
4,5人掛けの長椅子が中央の通路を挟んで、左右に10列程並んでいる。右側の上部にはくすんだステンドグラスが、弱々しく汚れた光をうっすら中に届けているが、左側の圧倒的な暗さに太刀打ちできていない。
かび臭い匂い。
正面奥は真の闇に思えた。真っ暗なのではない。
何かが蠢いている気がしたのである。
「警察だ!!」
2人は、それぞれ左右の壁伝いに中央へと進む。
ぎしぎしと部分的に板の張られた床が鳴った。
人の気配はない。
だが、何かがある。
2人は構えた拳銃を決して下げずに、じっと正面の闇を目差して少しずつ歩を進めた。
近づくにつれ、蠢くものの正体が判りそうな気がした。じりじりと近づく中、2人の視界に何かがキラリと光った。
「っっ!」
何か金属か?と思った2人の目の前で、キラリと光った物の正体が見えた。
それは、正面の壁に設置された祭壇と、それをぐるりと囲むようにおびただしく掲げられた…イコンだった。

「な、何これ…」
思わず十六夜が唸るのも無理はなかった。
祭壇の前にはこちらとそちらを隔てる柵が設けられており、その柵の向こうはこれでもかという数のイコンが所狭しと掛けられていたのだ。
キリスト、聖母マリア、聖人…有明の言った、上部から女性が見下す髭の男という絵もある。
「どうやら当たりは当たりらしいな」
望月の呟きに、十六夜は弱く首を振った。
「これは異常じゃない?」
壁が見えない程のイコンの量に圧倒され、思わず背筋が寒くなるものを感じた。
「判らん…が、確かにギリシャではイコンを多く並べる光景が見られるらしい」
「そうなの…?」
十六夜はそれでも信じられないという風に顔を振った。
その時である。

「イコンとは、非現実…聖なる彼岸である」
突然、男の声がした。

2人はサッと拳銃を祭壇中央に向けた。
暗闇の真ん中にある黒が動く…と、そこには黒い衣服を身に着けた髭を生やした男がいたのである。
宣教師を思わせる衣装の中の顔が、暗闇に白く浮かび上がる。
「…てめぇが…っ」
望月は唸った。
タイトルマッチに出向いたあの捜査員なら証言しただろう。そこにいた男こそが、人形を投げ込んだ、あの男だった。
「お前がアポロンか…っ!!」
額の中央に狙いを定め奮える声で呼びかける望月に、男は頷いた。
顔以外はすっぽりとした衣服に覆われていて、暗闇と同化している。
この男が娘の両手を…!
声の震えは指先にまで伝い、望月が今にも引き金を引くのではないかと十六夜は危惧した。
「ヒントは全て提示した」
「何が目的だ!?」
絞り出される望月の怒声。
必死の勢いで猛る感情に蓋をする。
娘の思い。
有明の思い。
自分の。
男ーアポロンは緩く顔を振った。
「キーワードを入力すれば判る」
「お前を逮捕する」
続く十六夜の声にも、顔を振る。
「キーワードを入力しないままタイムオーバーすれば、お仲間は頭を失う」
「貴様…っ」
望月が男と自分たちを隔てる柵を越えようとした。
「望月さん、待って!」
十六夜がそれを押しとどめると、文句を言おうとした望月より先にアポロンが言った。
「この内側はイコノスタシス…聖職者のみが入れる場所」
「貴様が聖職者だっていうのか!?俺の、娘の両手を奪った貴様が…っ!!」
「…これから、なる」
望月の怒声の迫力にも動じず、アポロンはそう呟くと。
静かに笑った。
「さぁ、時間はまだある。キーワードを入力して貰おうじゃないか」


有明は唇を噛んだ。
タイムリミットはあと4時間にまで減っていたのだ。
ヒントは揃った。
さぁ、キーワードを。


夕闇に沈む僅かな残り日が、聖堂内に弱く影を落とした。










初出…2008.11.3☆来夢

□ブラウザバックプリーズ□

実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。