桜木町の駅から緑色のラインの入った電車に飛び乗った。
時刻は日付が変わる頃。
隣でゼェハァと息を吐く橘とふと目を合わせて、須永は笑った。
「間に合った〜」
この電車なら、目的地まで乗り換え無しで行けるはず。
一日を戦ったスーツが疲れている気がしたが、特に気にせずに2人で空いていた席に座った。
カレンダーが休日の深夜、車内の人数はまばらだ。
ガランとした空間の両脇を、黒い景色が四角い箱に詰められて横切っていく。
「今日は日曜日か〜」
ネクタイを緩めながら呟く橘に、須永が頷く。
「世間様はお休みだったんだよね」
「あ〜俺、明日こそ寝てられると思ったんだけどな」
「ま、これもお仕事」
「やってらんね」
まったくだと思いながら、須永はチラリと疲れた橘から窓の外へと視線を移した。
都心から離れた路線は港町を出発して、県北へと向かう。
窓の外に見える風景はそれを理解させる様に、住宅の灯と低い山々の黒い塊ばかりだった。
都内を走る電車とは雰囲気が違う。
「まだ結構起きてるもんだね〜」
函館の夜景等とは言わないが、集合住宅の灯が集まる場所はキラキラとした海になっている。
電車からは多少の距離を置いて、街が存在している様だ。
須永の肩越しに同じ景色を見ながら、橘がボソリと言った。
「俺さー高層ビルをくぐる夜の首都高とか、大嫌いなんだよね」
ビルを間近に通る路線や道路は、一瞬で流れていく景色の中に沢山の窓が映る。
夜の窓の向こうには、黄色い四角が無数に溢れ、その中で今現在を生きる人々の姿が映ったりもする。
自分と同じ時間を過ごす人々。
それは生活感があるのに、現実感が無い。
今通り過ぎた光景は、本当の事だろうか。
隣り合う四角と四角の中の光景の違いが、更に現実感を乏しくさせる。
片方でビールを飲む人がいれば、片方で書類に目を通している人がいる。
実際の場所に行けばそれなりの距離が離れているのだろうが、通り過ぎるコチラからはまるで30cm隣の額縁にしか見えないのだ。
「あの一瞬でさ、もし誰かが傷つけられる場面を見ても、助けられないんだぜ」
通り過ぎた瞬間に脳裏を過る、ありえない映像。
黒い手が窓の中の人を殺め、そして笑う。
過ぎ去っていく自分をずっと笑いながら見送る。
お前に何が出来る。
お前達がここに来るのは、全てが終わった後。
「何かさ、現場に思えちゃうんだよなぁ」
何度経験しても慣れる事の無い場所。
生活感が溢れているのに、現実として生きる人が消えた場所。
仕事として触れる事件現場が、あの窓の一つ一つに生まれている気がしてしまうのだ。
一瞬で過ぎて行く景色の中に、間違いようの無い現実があり、もしかしたら自分の線と交わる日が来るのかも知れない。
だが、通り過ぎる瞬間は、そんな糸はどこにも見えはしない。
「だから俺は、これくらい離れてる方が安心する」
橘はそう言うと、窓から見える民家なのか商業施設なのかハッキリしない光の群れに目を細めた。
人の数に対して、距離が近過ぎるのかも知れない。
須永は疲れた横顔の橘を見つめ、そして車内の少ない乗客に視線を分けた。
1人の人間が一生に関われる人間の数は、どれくらいだろう。
仕事として目の前を横切る人ではなく、名前を知り心の内を語り合い、いざという時に手を差し伸べ合う相手。
人が増え、同じ空間を共有する人数が増えているのに対して、関わり合う人数は増えていないのかもしれない。
視界の傍らを黄色い光として通り過ぎる家の灯。
あの中の団欒か孤独かは、知人の家と判れば急に現実感が増す。
そこにいる人々が実体を持つ。
名も知れぬ人となれば、まるで夢の中の通行人の如き揺らぎようだ。
だけど。
その人が傷つく事があれば、そこに足を向けるのが自分達なのだ。
そんなきっかけで知り合う事なんて、望ましくは無いのだけど。
「俺はさ、高速とか気になるけどね」
「……渋滞とか?」
駅に近づいて少し減速した窓の向こうに、高速ではないが車の列が連なる車道が見えた。
オレンジ色に照らされた二車線の道を、まるで玩具の様な車が2つ3つと小さな集団を作りながら、たまに1台きりで疾走している。
「そうそう、なんか血流みたい」
あは、と須永が笑うと、橘が呆れた顔をした。
「今の俺達なんて乳酸の固まりだぜ、きっと」
「ドロドロ血だよ」
「あ〜ゆっくり風呂入りて〜〜っ」
「一緒に入る〜?」
「嫌だね」
ハッキリとした拒絶は、しかし顔が笑っていた。
日頃はこうした冗談に少し太めの眉を吊り上げて怒る橘も、今は流石に一日の疲れが押し寄せていて、怒る元気が無いらしい。
怒るにはパワーがいるのだ。
「ご実家に戻るのは久しぶり?」
「そうだなー正月休みも仕事で吹っ飛んだから…結構久々かも」
「県内なのにね」
「お前もな」
この電車は、橘の実家へと繋がる道。
須永は足を降ろした事の無い街へ運ぶ電車。
そこに橘の実家があると言われなければ、見知らぬ世界への不安定な線路に早変わりだ。
そんな不安定感が須永は割りと好きだったが。
「うちは故郷が無いからね〜まさに実家!」
「ご両親とも地元なのか?」
「うん、そう」
俺の両親は九州出身と言う橘に、思わず須永は小さく頷いていた。
田舎が無いなんて珍しい事では無いが、無いなら無いで「ある」事が羨ましくもなるものだ。
「小さい頃ってさ、夏休みとか皆行くじゃない、お祖父ちゃんお祖母ちゃんとこ〜って」
「ああ、何度目かで飽きる」
「飽きてみたかったよ〜俺は無いんだからさ。いっつも「故郷」ってどんなところなんだろう、どんな感じなんだろうって思ってた」
「別に…普通だろ?」
「知らないから、判らないんだよ」
様々に訪れる見知らぬ土地で、そこに暮らす人々を見る度に接する度に、不思議になる。
間違いなくそこにも生活があって、その人達と繋がる人が沢山いるのに。
どうして自分の線はそのどこにも繋がっていないのだろうかと。
ガタンと電車が揺れた。
時間が遅い為に各駅停車になっている。須永は見慣れぬ駅の様子を眺めながら、そこに降りて行く人、そこから乗り込む人をぼんやりと眺めた。
ここで知った顔が乗ってきたらどうしよう。
困るという事ではなくて、ドッキリしてしまう。
自分の知っている人が、自分の知らない場所を利用している事に。そこで初めて自分とこの駅に生まれる接点に。ドキドキしてしまう。
「九州で良かったら行ってこいよ」
「…え?」
橘がある県の名前を口にした。
「俺の故郷に行ってきたら?」
「…良いの?」
「ああ、俺の代わりに酒を飲んできてくれ」
美味い焼酎の里なのは判っているのだが、俺は酒が強くないんだよ、と橘がぼやいた。毎度毎度賑やかにもてなしてくれるのはあり難いのだが、飲め飲めと笑顔で振る舞われる酒が苦手で仕方ないらしい。
「言えば良いじゃない」
「…………言えない雰囲気なんだよ」
「そんなに飲むの?」
「…………皮膚から酒の匂いが立ち上りそうな気がする程度には」
汗をかいたかと思って皮膚を拭ったハンカチが、酒臭くなってたんだよ。
そんな体験談を苦々しい顔で語る橘に、須永は首を傾げる。
「だから、言えば…」
「あそこに行くと、男のプライドが顔を出すんだ!」
こっちにいると滅多にお目に掛かれないのにっ!と橘が唸るので、須永はそんなもんだろうかともう一度首を傾げておいた。
「本当に行って良いの?」
「ああ、喜ばれると思う」
「本当に〜?」
「マジで」
橘の故郷が、須永の中で急に影を濃くした。
駅を数えるに従って、車内の人数が更に少なくなる。
目的の駅は終着駅に程近い。
流石にそこまで桜木町から乗り続ける人は限られているようだ。
…と思っていたら、幾つか手前の駅で人がワッと乗り込んできた。
「…………いきなり増えたよ」
「ああ、もう少しだな」
眠そうな橘が駅の名前を見て頷く。
神奈川を走る電車が、一時東京を横切るポイントだ。
「電車って、路線によって人種が違う気がするよな」
「そうだね」
「考えてみれば、何の違いも無いんだけどな」
「そうそう、でも違う気がするんだよ」
橘の意見に判る判ると須永は頷いた。
確かに、路線によって乗っている人達の雰囲気が変わる様な気がするのだ。
よく分からない先入観なのは承知しているのだが、電車に乗る度に思うこと。
「俺はこの路線が好きだ」
自分が自然に馴染める空気があるのかもしれない。
須永は、橘がいなければ少し息苦しいかもしれないな、と車内を見回した。
「慣れれば好きかも」
「住めば都」
「そうだね」
「着いたぜ」
須永の耳には慣れない名前をコールする駅で立ち上がり、橘が彼を誘うように顎をあげた。
ちょっとドキドキする。
初めての上陸は、橘という仲介人のおかげで安心感があった。
さて、と橘が出口へ向かう。
ここまで来たら、後は橘の後に着いて行くだけだ。
何せこれから向かうのは、彼の実家だから。
「どうしよう俺、ちゃんとご挨拶出来るかな」
「は?」
「息子さん…統星(すばる)君を僕に下さい!!!…って」
「置いてくぞ」
ガスガスと橘の歩調が荒く歩幅が広くなって須永を無視する。
「ちょっと待って!」
「ただでさえ疲れてるんだ!明日も疲れるんだ!余計な疲れを増やすなよ!」
あっという間に遠ざかった背中に、あっという間に追い付いた須永に、橘がムッとしていた。
明らかに足のリーチが違うのだ。
「だってー今晩お世話になるんだし…こんな夜遅くにお邪魔して」
「明日は早朝に出発するんだから、そんな時間ねぇよ!」
「マラソン開始…8時だっけ」
「悪夢だ」
2人は明日、橘の実家近くであるマラソン大会に出場しなければならないのだ。
上司のお誘い…という名の、軽い上司命令で。
「悪夢だよねーだって橘君が誘われてて、俺はそこに通り掛かっただけなのにさ、気付いたら「須永も県内出身者だし」とか意味わかんない理由で巻き込まれてさ、気付いたらこうして一緒の電車に乗って見知らぬ駅までやって来てさ…」
ブチブチブチとわざと溜め息をつく須永の隣で、橘の肩がフルフルと震えている。
「じゃあホテル泊まろうと思ったらさ、お前一人でとんずらする気じゃないだろうなって疑われてさ、俺の実家に一緒に泊まれって言ったのは橘君なのにさ…」
橘の足が止まった。
フルフルと震える頭が俯いている。
少し意地悪な言い方過ぎたかな?と須永が舌を出したところで、彼が顔を上げて叫んだ。
「ちくしょー!何だってこんな時に限って緊急の仕事が入らないんだっ!!お前と一緒ならタイミング良く仕事が舞い込むかと期待してたのにっ!!俺は実家にも故郷にも顔出して無いから、正直戻ると説教が怖いんだよ!やれ顔を出せやれ結婚しろやれ孫の顔を見せろって!!お前が一緒ならそんな話題も逸らせるだろうと思って誘ったけど、やっぱり戻るの面倒くせ〜〜〜っっ!!」
走りたくも無いし実家に戻りたくも無いー、と叫びながら頭を掻きむしる橘に、遠くで吠える犬の声が重なった。
夜間に駅前とは言え近所迷惑だな、と須永は一応言っておく。
「橘君、それ不謹慎だし…俺に失礼だからね」と。
ビシッと指摘した須永を無視して、橘は叫ぶ。
「離れているからこそ良いものだってあるんだぞ!!」
「住めば都なんでしょ!」
ほら行くよ!と道の判らない須永が橘を引っ張って歩き出すと。
諦め切れない橘が恨めしい声を出す。
「今からでもホテル泊まらないか?」
そんな彼に苦笑しながら、須永は寝入ろうとしている街を見上げて笑った。
「ラブホ?」
|