巣立ち

「おい、どうするんだよ」
橘君が可愛い鼻をひくひくさせながら、怒ったように言った。
それを「可愛い〜」と言っては怒られる事を繰り返しているので、口には出さないでおく。
ただ、視線がそこに行ってしまうのは止めようもないんだけど。
「どこ見てるんだよ!」
「橘君って可愛いよね〜」
「げっ」
近寄って来た彼が、数歩後ずさった。
別に取って食う気は無いのに失礼だな、と口を尖らせると、彼は困った顔になってしまった。
「お前…俺の評判も気にしろ」
「うん?」
ちらり、と彼が視線で周囲を見ろと促すので、彼より15cmばかり高い視点をめぐらせてみた。通路の向こうにあるドリンクコーナーで、制服姿の婦警達が手を振ってくれた。
笑顔で手を振り返すと、橘君がその手をぐいと引っ張って行く。
彼女達から見えない場所に移動して、彼はふーっと溜息と一緒に言葉を吐きだした。
「だから、ホワイトデーはどうするんだよ、須永!」
そう俺を睨みながら。

3月も半ばになると、横浜は春の匂いがする。
単純に花粉症の為のマスク姿を沢山見かけるだけかもしれないが、良い季節が来たな〜と思う。個人的にこの街の海に似合うのは初夏だと思っている。冬の空気の透明感と、春の穏やかさ、そこに夏の昂揚感が混ざり始めて、嫌でも笑顔になるからだ。
「お前はいつでも笑ってるだろうが」
「え〜そんなことないよ?」
屋上に出るとまだ冷たい風に吹かれて、髪の毛が乱れる。それを手で押さえながらムッとした顔を作って橘君に見せてみた。
ペシン!とむき出したおでこを叩かれる。
「酷いっ」
「それは自分が二枚目だってのをひけらかしてんのか!?」
「何でそうゆうことを言うかなぁ」
「だってそうだろう」
「俺にとっては普通の顔です」
「その顔目当てもあって、女どもはあんだけチョコを贈って来たんじゃないのか?」
また鼻をひくひくさせている橘君が言うのは、先月のバレンタインデーの事だ。
確かに驚くような量を貰ってしまった。
同じ職場から、他の県警から、知り合いから、以前事件などで関わった人から、お店の人から、通りすがりのコンビニの店員から、果ては犬の散歩中のおばさんからも。
でも、この人から欲しいな、と思った相手からは何の音沙汰も無かった。当然といえば当然の結果なんだけど。何せ相手には恋人がいるので。
「でも、本命からは貰えなかったし〜」
「え、お前って好きな人いたのか!?」
「でも、貰えなかったし〜」
「マジで!?振られたのか!?」
「何か橘君が嬉しそうだし〜」
「おいおい、どんな女だよ!」
「女じゃないし〜」
ずんずんと沈んでいく俺の横で、橘君がひくっと息を飲んだ。
暫しの沈黙。
「あ〜、で、ホワイトデーはどうするんだ?」
彼の中で何かしかの結論が出たらしい。
沈んだまま彼を見上げると、その答えが判った。『ふざけたな、このやろう』
本当なのに。
「う〜ん、どうしようかね」
「どうするんだ」
「ところで、何で橘君はそんなに気にしてくれてるの?」
復活して尋ねてみると、彼は風に揺れるネクタイをギュッと締め直した。
「俺が女達から質問攻めで参ってるからだ!」
あぁ、首が締まってる締まってる…

うーんとデスクに戻りながら悩んでみる。
橘君は隣の席から「贅沢な悩みだ!」と小さくフンっと鼻を鳴らして知らんぷりをしようとするが、俺はそんな彼にアイディアを頂戴とお願いしてみた。
「ねーどうしようか」
「自分で考えろ」
「総監から10分おき位で電話が入ってたみたいだ。折り返した方がいいかなぁ、面倒だよなぁ」
「何!?」
彼が覗き込んだ俺の机には、警視総監から電話があった事を報せるメモが、七夕の短冊のように貼られていた。パソコンのメーラーを起ち上げると、そちらにも沢山メールが入っている…総監から。
「愛されちゃってる?」
嫌だな、俺の好みはあんなおっさんじゃないのに。
そう呟くと、橘君が情けない顔になっていた。
「世の中は無情だよな」
「何で?」
「どうしてお前みたいな2枚目が頭も良くてキャリアで家も金持ちで、しかもドラマではよくある上層部のイジメにも遭わないっていう…そうゆう状況が無情」
「違うけどね」
色々と、と付け足しながら、メールの文面に目を走らせた俺は、本気で困ってしまった。
まともに取り合う気の無かった橘君は、そんな俺の様子に気付いたらしい。
「どうした?」
大きな目で尋ねてくるその凛々しい眉毛を見ると、俺はある人を思い出す。言わないけど。
「総監が見合いしろって」
「マジで!…って、お前、前に見合いをぶち壊した事があったよな…?」
橘君が記憶を探る様な顔をした。
トントン…と指でこめかみを叩くのは彼の癖だが、現場や取り調べでこれをした時は、大抵記憶を取り戻す事に成功している。
「そうだ、確かレストランで大騒ぎをして…」
「………」
「あの時、誰か友達に協力してもらったんじゃなかったっけ?ほら、海…」
「橘君」
隣の彼に対して俺は体をきちんと向けた。
そして、こめかみを叩いていた手ともう片方の手を取り、お互いの間で組み合わせる。
…大の男2人が何をしている、という図だ。
勿論、橘君も怪訝な顔をしたのだが。
「橘君、俺の本命になって」
真剣な声と顔で囁く様に言うと、一拍置いてから、橘君が顔を真っ赤に染めた。


ワッと手を払われて、逆にそれが周囲の注目を集めてしまう。
だが、そんな事に構えない彼は慌てて立ち上がると、わななく口元で叫んだ。
「お、お前は男が好きかもしれないが、俺は女の子が好きなんだ!」
「…っ」
馬鹿野郎!と叫んで橘君が走り去る。
余りの勢いに部屋中の空気が固まり、そこに残された俺に嫌でも視線は集中した。
「………あらぁ」
俺に動揺は無い。
だが、後悔はあった。

少ししてから橘君を探すと、彼は屋上に静かに佇んでいた。
春の風で霞む街を見下ろしながら、その背中が何だか寂しい。
「……橘君、ご」
めんね?と謝ろうとした声は、顔を見せないままの彼に遮られた。
「悪かった。俺…お前のキャリアに傷をつけちまった」
「…傷なんて付けられてないし、そんな傷が付くような物も持ち合わせてないよ」
そっと隣に行くと、手すりにしがみついた彼の目が潤んでいる。
ああ、そんなに気にしなくて大丈夫なのに…と申し訳なくなる。
「だってお前、変な噂が立ったら…戻れなくなっちゃうだろ」
世間がどれだけ寛容な空気に染まろうとも、自分たちが立つこの場所は向かしながらの封建制度の城みたいなところなのだ。確かにキャリアに取っては、評判1つが命取りになる事がある。
何を命とするかにもよるが。
「立たないし、戻るつもりもないから良いんだよ」
「そんなわけないだろ!総監からもあんだけ…っ」
「俺は俺だからね。他の何かになりたくてこの仕事に就いたわけじゃないんだ。それに、変な噂ってのが判らない」
ニッコリ笑うと、少し呆気にとられた様な橘君が、プイッと顔を逸らした。
彼が口をつぐんだのを見て、俺が口を開く。
「ごめんね」
「………何が」
「橘君を利用した」
正直に言うと、彼が顔を向けてくれたのが判る。
判るけど、今度は俺が顔を向けないまま。
「俺ね、本気なんだ………その、友達に」
「………え」
「前の見合いを壊した時、本気で好きな人を連れてったんだよ。俺には好きな人がいるから、お見合いは出来ませんって。他の人に頼むなんて、考えられなかった」
優しい人だから、恋人の許可も取った上で協力してくれた。
女性に対して酷い嘘を吐きたくないけど、あれは本当だったから言えたんだ。…好きな人がいます。この人です。だから、あなたとお見合いは出来ません…と。
「流石に二度はお願いできないし、何よりあの騒ぎで、もうこうゆう話は来ないと思ってたんだけどな〜」
だからつい焦って。
こちらの計算違いに、大好きな人を巻き込みたくなくて。
思い出して貰いたくなくて。
あの人の存在が、皆と「共有」されるのが嫌で。
「俺が橘君を利用したんだ。…ごめんなさい」
きちんと顔も体も向けて、そして頭を下げた。

ひゅうひゅうと聞こえるのは、冷やかしの声じゃなくて、風の音。
この風の吹く向こうに、青い海が広がっている。
あの海を舞台に活躍する人達がいる。
その中に、大好きな人がいる。
「……驚いたな」
「…え?」
「お前でも本気になったり焦ったりする事が、あるんだ」
橘君の声に顔を上げると、目の前に彼の笑顔があった。
ふいに、あの人の笑顔が浮かんで、そして消える。
「許してくれる?」
「お互い様」
「良かった」
照れたように頷いてくれた彼に、俺は本当に嬉しくて肩を竦めた。

すると、橘君の表情がまた曇る。
「でも…皆に誤解っていうか…あの発言はどう説明するよ?」
彼が気にしているのは、部屋を飛び出す時に叫んだ言葉の事だろう。
俺はあの後の部屋の中に飛び交った言葉を、出来るだけ忠実に彼に教えてあげる事にした。

「ほら須永〜純情ボーイをからかうんじゃねぇよ」「純情ボーイだって!」「えー須永さん、男を理由にホワイトデーを誤魔化そうって腹だったんですか!?」「酷〜私てっきり食事につれてって貰えるものと期待してたのに」「えぇ、私は日本初上陸チョコでお返しと思ってたわよ」「何にせよ、橘が女の子から誤解されたら可哀想だろうが」「誤解されても支障ないんじゃないですか?」「万が一あいつの事が好きだって女がいたらどうするんだ!」「万が一って!」「あれで結構可愛いって評判が…」

俺が言っているうちに、橘君がプルプルと震え出した。
最初は照れてるのかな〜と思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。
「万が一ってどうゆう事だ〜〜〜っ!」
「あ、橘君」
「止めるな須永!」
ぐわーっと赤い顔をしながら、自分への言葉に怒っている橘君が走り出した。その背中を視線で追い掛けて、俺は言った。
「ホワイトデー買い出し、付き合ってね」
1人じゃとても手に負えない量だから。
ヨロシク〜と見えないだろうけど手を振った俺を振り返る事はせず。
「バレンタインもホワイトデーも、大嫌いだ〜〜〜〜っ!!」
うわーっと怒鳴りながら走り去った彼に、俺はこみ上げた笑いを押さえる事は出来なかった。


本当に、俺もこんなイベントは切なくなるから大嫌いだよ。
だって、きっと俺の大好きなあの人は、恋人の為に色々と努力したに決まってるんだから。
そして素敵な恋人からのお返しを貰って、頬を染めているに違いないんだ。
そんな事を想像するしか出来ないなんて。
「悔しい〜」
でも、あの人がそれで笑顔になれるなら、こんなに素敵なイベントも無いじゃないか。
嬉しそうなあの人の顔を思うと、俺も嬉しくなる。
それもまた。
「本当に、悔しい〜」


てへ、と舌を出した俺の頭上を、白い飛行機雲が一筋伸びていった。










初出…2008.3.10☆来夢

□ブラウザバックプリーズ□

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