No Brand Saurus

「正宗」
確かに文はそう口にした。




その名前を耳にして、佐古は「さて」と首を傾げた。
文の勤めていた会社にはいない名前だ。
「大人しく帰ったんですか」
「須和に命令した。…外には出させねぇ」
荒々しい雰囲気も顕に戻ってきた彰彦の話を聞けば、文が知らない男の名前を呼んでいたという。
とりあえずそれは調べる事にして、佐古はもう1つ気になる事を口にした。
「で、彼女は?」
「あ?だから、家に帰したって」
「八頭ですよ」
彰彦の顔がポカンとした。
忘れていたらしい。
「…やっべぇ…ま、いいか」
良くないだろうな、それは。
そう思った佐古の想像は的中していた。
突然に現れた3人組に彰彦は掛かり切りになり、あろうことか楓を残して消えてしまったのだ。
正確には中々戻ってこない、事情も説明しない彰彦に意思表示をしようと、楓はわざとその場を離れたのだが、いなくなった楓を彰彦が探しに来る事は無かった。
「何様のつもり…っ!?」
「八頭君?」
「帰ります!」
ぷりぷりとした楓に、部署の人々が目を丸くして驚く。
彼女はそんな人々への挨拶もそこそこに、さっさと鞄を手に外に出てしまった。
何か文句があるなら言ってくれば良い。
こっちから勤めてやってるんだから…
「お腹空いちゃったわ」
彰彦のおかげで昼食を食べ損ねている。
彼女は携帯電話を取り出すと、知り合いの男に電話をした。確かこの近辺に勤めているはずだ。
電話はすぐにつながった。
『楓さん?お父さんはお元気ですか?』
男の声に、楓は満足そうに目を細めた。

正宗は、学生時代の恋人の名前だ。
卒業前後に疎遠になり、そのまま自然消滅する形で終わった恋だった。
それで「仕方ないな」と納得できたのだから、その程度の思いだったのだろうと思っていたのだが。
嫌う感情は一切無い。
今も胸に甘い思いが過るかと言われれば、それも無い。
だが、何となく懐かしい、不思議な柔らかい繭に包まれる気分がしたのだ。
彼の卒業後の進路はどうだったろうか。
偶然、彰彦のビルの表で見かけた彼の姿。
まるで当時のまま記憶から抜け出してきたかの様な姿。
ビルを見上げていたその顔は、間違いなく彼だったと思うのだが…
「だーかーらー!正宗って何!誰!?正宗?吉宗?何宗!?」
「遊莉さん、お茶がこぼれますよ」
ソファの上で跳ねる遊莉に、保が苦笑する。
よりによってあの場面で彰彦に出くわすなんて、運が悪い。悪すぎる。吉宗って誰だ。
「あー怖いよー」
「何何、浮気してたのは文の方だったの!?」
「私が浮気なんてするわけないでしょう!というより、浮気って別に私はあの人は別にその…」
ゴニョゴニョゴニョと沈没していく文の声。
怖いのは帰ってきた彰彦が何を言い出すか、だ。
「外出禁止令ですか」
「文ったらねー、アキの前で知らない男の名前を呼んじゃったのよぉ」
「おやまぁ」
感心したような楽しんでいるような、保と遊莉。
「アキが帰ってきたらどうなるのかしらね!」
「…何で笑顔で言うの」
「だって楽しみだもん」
うふふ、と笑った遊莉。やっぱり楽しんでいる。
彼女は胸の前で手を合わせながら、夢見る乙女の様にうっとりと囁いた。
「宗って誰だ、あなたこそあの女は誰よ、あれはお前その、だから私だって、何だと」
「もしもーし、それは何」
「馬鹿だな、あいつとは何でもねぇよ、私こそ彼は何でもないの、あや…あき…」
「だからそれ、何ーっ!?」
あっち向いてこっち向いて、一人二役で大忙しの遊莉に、文は何だか空寒い演劇を想像してしまって腕を摩った。無い無い、そんなシーンはあり得ない。
「あるかもよ?2人とも浮気なんて、修羅場だし?」
「浮気なんてしてないよ、私は」
「じゃあ宗って誰なのよー」
「宗じゃなくて正宗!」
「アキの事は何て呼んでるっけ?」
「あ?あ、彰彦…さん」
「ほらー!アキは「さん」で宗は呼び捨てだもの〜〜っ!」
「だ、だって、正宗は私の」
「私の何だよ」
ソファで跳ねていた遊莉を抑えようとした文は、突然背後から抱き留められて固まった。
低い声が頭上から降り注ぎ、太く逞しい腕が肩をめぐる。
そのまま背後に倒れる様に抱きこまれ、文は背中に厚い胸板を感じた。
ついでに、怒りの気配も。
「わ、わた、私…の…」
急に大人しくなった遊莉から視線を外して、上へ上へと顔を上げると。
「俺はお前の何だろうな?」
にっこり笑う彰彦が、いた。


そして翌日、佐古の前には苛ついている彰彦が、いる。
「結局『正宗』について尋ねなかったんですか?」
「それどころか、アイツ脅えちまって…ちっ。何だってんだ、そんなに俺が怖ぇか?それとも信用してねぇってのか?」
「だから、信用されてると思ってるんですか?」
はぁ、と呆れた吐息の佐古に、彰彦がトントントンと机を指で叩きながら呻いた。
「物もいらねぇ、浮気も疑わねぇ、アイツは何を考えてんだ?」
「知りませんよ」
「くそ、こうゆう時に遊莉は当てにならねぇしな」
「そうですね」
否定しないが、佐古は遊莉の恋人だ。…多分きっと間違いなく。
「ところで、私は調べましたよ、『正宗』について」
佐古は彰彦に数枚の紙が挟まったクリアファイルを差し出した。
「早いな」
「すぐ判りました。文さんの同級生で、元恋人です」
むっと彰彦の唇が強く締まった。
「どうして判った?」
「警察のフリで」
「お前は悪党だな」
「おかげさまで。ちなみに名前は樋口正宗。彼は本物の警察官で、しかもこちらに赴任してます」
「…何?」
彰彦の手の中の資料では、制帽姿の男が敬礼している写真が印刷されていた。


外出禁止令を食らった文は、仕方なく大人しく家にいた。
保を手伝って掃除をしているものの、何だか胸の内がもやもやとするのだ。拭いても拭いても綺麗にならないガラス窓。
「…何で…」
窓の外は青い空。
「……何で…っ」
庭には輝く芝生。
「…何で私が外出禁止なのよっ!」
「文さん?」
段々と苛々してきた文は、その時彰彦がトントンと机を叩いていたことなど知らない。
最初は「仕方ないか」と思えていた事が、何故か後から後から罅割れて壊れていく。
「私にだって男の知り合い位いますーっ!なのに、名前呼んだくらいで…っ!自分はどーなの自分は!」
ガシガシガシと力いっぱいガラス窓を拭く文に、保も、気になって覗きに来た竜もかける言葉がない。
「あんな綺麗な会社でさ、毎日綺麗な人に会ってんでしょうが!そうよ、この間のあの人だって、「彰彦さん」なんて言ってたじゃない!」
そういえば、車で通りかかった時も一緒に歩いていたのは彼女じゃなかったか?
ちょっとツンとした感じの、でも都会的な美人だった。
いかにも美容に手間暇かけてます、といった具合の。
対する自分はといえば、清潔感だけが取り柄だった女だ。
彰彦の隣にどっちが立った方が見栄えが良いか、比べたらきっと分が悪いなんてものじゃないだろう。
むわーっと文の胸の中で火山が煙を吐き出す。真黒な煙だ。
「私は名前を呼んだだけ!自分は女と一緒!どっちが…どっちが!?」
ぴたり。
怒鳴り終えると固まってしまった文に、弥彦も顔を出す。
さて、どうしたのかと思っている面々をよそに、文は突然すたすたと歩き出した。
竜が「もしかして家出!?」と焦るが、文は静かに自室へと入ってしまっただけだった。
携帯電話を取り出して、カチカチと操作する文。
心配そうにドアの前には竜と弥彦。
「よしなさい」
「いやでも」
保に注意されてもそこをどかない二人の耳に、文の声が飛び込んできた。
「あ、立科さんですか?」

久々に聞く立科の声は、文の心を少し軽く、そして少し後ろめたくさせた。
別に何でもない、と自分に言い聞かせる。
彰彦の勝手な言い分に自分が振り回される事は無いのだ。
むしろ、彰彦の振る舞いに自分が過敏に反応する事もないのだ。
そう、別に彰彦と自分は愛を誓い合ったわけでもないのだから。
『元気?』
「とっても!」
ある意味発熱中ですが。
『久しぶりだよね、何かあったかなって心配したよ』
あります、あります、もーありまくりです。
「実は、立科さんに相談が…」
『僕の方もちょうど伝言があるんだ』
「伝言?」
かち合った言葉を文は立科に譲った。
『今日ね、君宛に『樋口正宗』って人から連絡があったんだよ』
その言葉を聞いた瞬間、文の心臓が一度はねて体を揺らした。
立科には、就職のことで相談したかっただけだ。
思いがけず耳に飛び込んできた名前は、そんな気持ちをすべて吹き飛ばしていた。
やっぱり、見間違いなんかじゃなかったんだ。
あそこにいたんだ、正宗は。
しかも連絡を取ってきたなんて…
『君を探してるらしいよ』
一瞬頭の中をよぎったのは、彰彦とあの綺麗な女性の姿だった。

嫌いあって別れたわけじゃないが、今でも好きを引きずってるわけでもない。
ただ、それは美しい思い出になっていた。
今は特に。
『元気か?』
立科と同じ出だしに、ちょっと吹き出したくなる。
彼が伝言していた番号にかけると、懐かしさは現実になって文を包んだ。










初出…2009.1.15☆来夢

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