No Brand Saurus

街の中心部まではタクシーでワンメーターの距離だが、街中の喧騒とは無縁な高級住宅街に、彰彦の本宅はある。白い壁に囲まれた敷地は、朝の静謐な空気に包まれていた。世界がまだ動き出す前の、奇妙な静けさ。これから日が昇るのと比例して、活動する気配が流れてくるのだろう。眠りと活動の、その本の少しの合間の時間。この時間に正門から玄関へと続く石畳を掃く事が、竜のお気に入りだ。
「朝刊はっと」
ポストを覗き込むと、全国紙と地方紙が一通り放り込まれている。
ずしりと思いそれらを抱えて、竜はすたすたと軽快な足取りで屋敷に戻った。掃き掃除に朝刊取り、この後は掃除に洗濯、朝食の手伝い…とやる事がいっぱいなのだ。高刀組に入れただけで幸せを感じている竜は、その待遇に得に不満は無い。たまたま付いた兄貴分の弥彦が彰彦宅に住んでいたおかげで、自分までここで寝起きさせて貰えている。家を追い出されて放浪していた身としては、満足に大を付けたい現状だった。
「保さーん、新聞揃ってます」
「ああ、ありがとう」
キッチンから朝食を作っている保の声と、おみそ汁のいい香りが漂っていた。
洗濯機の回る音もしているから止まったら干そうと思いつつ竜がリビングに向かうと、そこではTVの朝のニュースをチェックしている佐古がいた。昨日は泊まっていったのだ。
「昨日の、載ってませんね」
「止めたからな」
おはようの挨拶をしながら新聞を受け取った彼は、相変わらずの細目で答えた。仮にも街中で発砲があったのだから、地方紙なり地方版ニュースで扱ってもいいものだが、それは無い。彰彦が懇意にしている警察幹部にさっさと口止めを図ってある。
「格好いい…っ!」
何てことない様子で呟いた佐古に、竜はうっとりと羨望の眼差しを送った。
「竜〜洗濯物〜!」
「はーい」
保の声にくるりと踵を返す若者を見送って、佐古は少しだけ肩を竦めた。


その頃、弥彦は少し悩んでいた。
昨日から突然同居人となった女が、ベッドの上から不機嫌な眼差しを隠そうともせずに向けてくる。
文にしてみたら、これが不機嫌にならずにいられるか、という状況だ。
「だからね、弥七さん、私は1人で起きられますから」
「いやぁ、寝てて貰わないと困りますっていうか、俺は弥彦です」
弥七じゃないと何度も言うのだが、文も熱で少し朦朧としているのか何度聞いても間違える。
とにかく熱で具合は悪いは脇腹は痛むわ、何よりこの現状に不安がいっぱいだわで、眠れたものじゃない。1時間も眠れたかと思えば、不意に目が覚めるの繰り返しだ。あんまり騒ぐと「鎮静剤を入れましょうか…」と保が言い出したから、必死に平静を装った。…鎮静剤だなんて言って、何を注射されるか判った物じゃないからだ。
「寝続けで辛いんですよ。ちょっとくらい起きたって良いでしょ!」
「いやぁ、でも保さんが寝てた方が良いっていうし」
「弥七さん!」
「弥彦です!」
ベッドから足を下ろそうとすると、慌てて弥彦がそれを戻す。
「顔洗いたいし歯も磨きたいしお風呂入りたいし、もう色々じっとしれられないっていうか、弥七さんだって他にやる事あるでしょう!?」
「俺の仕事は主にPC関連だから時間の融通は利くんです!そして俺は弥彦!」
「何でもう弥七で良いじゃない!私の財布とかどこ!?」
「良くないっすよぉ!祖母ちゃんに危うく「弥七」って名付けられるところを母ちゃんが踏ん張って弥彦にしてくれたんすから!」
「良いお母さんですねーって、私には関係ないし!」
「腹の傷が開いたらどうするんですかぁ!安静第一!」
わぁわぁとベッドの上と脇で攻防戦を繰り広げる2人に、部屋の前を洗濯籠を持って通りかかった竜が声を掛ける。
「おはようございまーす。もうじき朝飯出来るそうっすよ」
彼にはこの闖入者・文の存在も面白くて仕方ない。弥彦に声を掛ける素振りで、そっと文を伺う。
すると、文が彼の手荷物に目を留めて大きく口を開けた。
「わ、私の服…っ!下着も…っ、どどどうし…っ」
「ああ、鞄の中に入ってた洗濯物、一緒に干してきちゃいますね」
女の下着を干すなんて、男にしたらちょっとしたドリームじゃないだろうか…という竜の思考は、文には通用しない。さっさと姿を消す彼を追い掛けようと更に抵抗激しくなる文に、弥彦が少し泣きたくなった。
男なら殴って大人しくさせるところだが、生憎文は彰彦の「運命の女」だとか。
彰彦本人が半信半疑なのだから、弥彦に至っては「嘘ぉ」と8割信じられない。女嫌いの須和などは、存在を視界にいれまいという拒否っぷりで昨日は帰っていった。
「俺も拒否したい…」
どう扱っていいのか判りません。
ギブアップしたくなった弥彦の脇から、不意に伸びた腕が文を抱え上げたのはその時。
「朝っぱらから喧しいんだよ」
呆然とする文を連れてどかどかとリビングに向かったのは、彰彦だった。

柔らかなラグの敷かれた部屋に、ベージュの革張りのソファが並んでいる。部屋の広さの割りには調度品が少なく、やや殺風景だ。しかも白とベージュが色の基調となっている為に、だだっ広さが際立っている。
見上げた先の洒落た照明が、今は灯る必要も無くてつまらなそうに文を見下ろしていた。
「本当は横になっていた方が良いんですよ」
ソファに腰掛けた文を心配そうに見ながら、保がテーブルに暖かな湯気を立てるスープを置いて行く。
リビングから少し覗くダイニングでは、彰彦や佐古が何やら話ながら食事中だ。弥彦や竜も合流して、保も一緒に割りと賑やかな雰囲気である。
確かにだるい…と熱でぼんやりしながら、文は壁に取り付けられたTV画面を眺めた。気まぐれにチャンネルを変えるが、どこも朝の報道番組の時間帯らしい。
そういえば、昨日の発砲事件-まさに自分が被害者-はどう扱われているのだろう。
チラリとダイニングの様子を窺いながら、文はTVにメニュー表示をして調べてみる。しかしどこにもその情報は見られず、またテーブルに広げられた新聞各紙にも記事は一行も載っていなかった。
「あれぇ…」
何で…と思いながら、文は「あっ」と小さく声を上げた。
発砲事件がどうの以前に、自分が柿本を殴って蹴って逃走した事件はどうなったのだ。結局誰にも連絡せずに、ホテルから逃走して今に至る。きっと会社の面々…と言いつつ頭に浮かぶのは立科の顔だけなのだが、彼らが心配しているのではないだろうか。…希望だが。
柿本に関しては「もしや文がセクハラで自分を訴えるのでは」と、冷や汗でもかいていれば良いと思う。
「携帯、私の携帯…っ」
慌てて立ち上がると、ズキンと脇腹が痛む。
手を当てると更に痛いので、触れる事も出来ず背筋を伸ばす事も出来ず、ただ嫌な汗を感じた。かと言って座り込んだら立ち上がれなそうなので、このままの姿勢で部屋に戻って私物を探してみようと思う。
そんな文にリビングの面々が気付く様子は無かったのだが。
「おはようございま…」
「あ痛っ」
リビングから部屋に戻る廊下の境で、文は入ってきた男と正面衝突してしまった。


ぺたりと尻餅を着いて相手を見上げると。
「…っ!」
長身の眼鏡男が、信じられない物でも見る目つきで文を見下ろし、そして彼女とぶつかった胸元を慌てて手で払ったではないか。何だその態度は!とムッときたが、立ち上がれない。
「あ、須和さん早いっすね…って、文さん何してるんすか?」
「竜!それどかしとけ!」
須和が「それ」と言ったのは文の事だ。意識的に視界から彼女を排除した須和が、するりと脇に避けてダイニングに向かう。
「ちょっと!何その態…」
ぐわっと振り返って怒鳴ろうとした文は、捻ろうとした脇腹に走る痛みで息を飲んだ。
竜と保が慌てて駆け寄ってくるが、文は必死にその手を拒絶した。
何で撃たれた挙げ句に知らない家に連れて来られて、しかもあんな態度を取られなくちゃならないのか。熱の不快さから来る苛立ちもあり、文は泣きたくなってしまった。そんな彼女に、竜も保も困ってしまう。
「ほらー須和さんがあんな態度取るからっすよ」
「知るか」
「忠信…」
「知りません」
「女嫌いだからって、もうちょっと…」
「黙れ」
「保、鎮静剤でも打ってみたらどうだ」
ダイニングでは4人が好き好きに呟いている。
彰彦の声に保もそれが良いと思ったのか「じゃあ…」と鎮静剤の準備をすべく、離れようとした。
しかし、それは文が阻止した。…ダイニングの4人も黙る様な悲鳴を上げて。


朝の住宅街には相応しくない声だ。
それ以上に、文の声にただ事ではない気配を感じたのだろう、それまでの呑気な空気が一変していた。
「何なの、一体何なのよ!? 私が何したっていうのよ!何で病院じゃないの、ここどこなの? 柿本の馬鹿から逃げたのがそんなに悪いの!? 黙ってあいつの言う事聞いてりゃ良かったっていうの?どこまで我慢すりゃ良かったのよ!折角…折角、頑張れるところが見つかったと思ったのに…っ!」
文の頭の中で会社の事や柿本・立科・それに元凶(かもしれない)先輩の顔がぐるぐると回った。
今の会社をクビになったのなら、またフリーター生活に逆戻りだろう。それもまた文の心を重くする。望んでなったのならともかく、それは文の望む姿ではなかったからだ。フリーターでも良いじゃないかと、満足している様なポーズをまたしていかなくちゃならないのか。何がしたいか見つからず、何となく足を突っ込んでしまった生活を肯定する為の強がりが、彼女を束縛して離さない足枷になってしまっていた。
親や友人に相談する事も今更…と出来ない状態で、突然めぐってきた会社員の椅子。生け贄だったかもしれないが、それさえ我慢すれば…と思って頑張ってきたのに。
混乱している上に熱と痛みで朦朧とする文は、頭を抱えて丸くなった。
目を丸くしてしまった竜と保の間で、小さく小さくなっている文。
彼女が震えている事に気付いた彰彦は、佐古に「柿本っての調べろ」と小声で囁いてから文の元へ向かった。
「文」
触ろうとすると手を払われる。
恐ろしい光景を見た気分で竜はあわあわと動揺してしまうのだが、彰彦は気にしない。何度か同じ事を繰り返してから、何とか文を腕の中に抱き込む事に成功した。
もう喚きはしないが呼吸の荒い文に、彰彦が語りかける。
「良いか、ここは俺の家だ。病院じゃ都合が悪いから、こっちへ連れてきた。お前は何も悪くないから、今は傷を治せ。熱が出てるのは体の休めってサインだ、判るな?後の事は何も心配しなくて良いから、眠るんだ。良いな、文」
ゆっくりと体を擦りながら語り続ける声に、次第に文の呼吸が静かになっていく。
それは安心したというよりも、体が限界を訴えて意識を強制終了させたのかもしれないが、ともかく彰彦の腕の中で文の瞳が閉じた。

ベッドに戻した文の寝顔に、彰彦が深い溜息を吐く。
彼女の熱を計ったりしている保を眺めながら、佐古が大丈夫かと問い掛けた。彼の手には文の免許証や携帯電話が握られている。ここから「柿本」とやらを探り出す切っ掛けを貰うつもりだ。
「御婆め…本当にこいつが運命の女なのかよ」
「好みじゃありませんか」
クスッと笑う佐古に、「そうゆう問題じゃねぇ」と彰彦は顎を撫でた。まだ髭も剃っていなかったから、手にざらりとした感触がある。
「ラッキーアイテムみたいに思ってたからな、何て言うか…」
もう一度溜息をついて、彰彦はぼそりと漏らした。
ずしり、と何かを胸に感じたんだ。
そう言う彰彦に、佐古が静かに頷いた。










初出…2008.1.7☆来夢

□ブラウザバックプリーズ□

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