「怒ってる!」
「そりゃ怒りますよ!殺されるとか思いませんか!?」
「ひーひーっ何でそこで『立科さんに危害を加えないでよ!?』になるわけぇ!?」
ドタバタドタバタと、部屋の中が騒々しい。
文が携帯を手に歩き回り、遊莉は床をじたばたと転げ回り、須和は恐怖にガタガタと震えている。
「どうしよう、来るって!」
「帰ります!帰りましょう、遊莉さん!!」
「ずるい!!」
彰彦が来ると聞いて、須和が即座に立ち上がった。
直立不動の姿勢で遊莉を見下ろすが、彼女は涙を流しながら床を叩いている。
文は慌てて須和のスーツを掴んだ。
「さ、わらないで下さい!!」
「逃げるなんてずるいわよ!」
「俺は何もしてないじゃないすか!」
「何とかしてよ!」
「無茶言わないで下さい!!」
玄関に走ろうとする須和を、文がスーツを掴み、遊莉が足首を掴んで止める。
女2人に触られて須和が叫ぶが、そんなのはお構いなしだ。
とにかく車ならあっという間に辿り着かれてしまう距離。
逃げるか、迎え撃つか。
「どうしよう!?」
青ざめた文に、遊莉がニヤリと笑った。
絶対零度に直滑降中の彰彦の相手なんて、誰にでも楽勝で出来る話ではない。
仕方なしに自ら運転手を買って出た佐古は、文のマンションに向かいながらバックミラーを伺った。
「そんな顔で会ったら、泣かれますよ」
「泣きたいのはこっちだ」
どう見ても泣いてる顔ではなくて、怒り心頭の顔で言う。
「文さんも悪気があったわけじゃないでしょう」
「これが悪戯だってんなら承知しねぇ」
ああ、やっぱり泣いていない。
それにしても、と佐古は思った。
文から3度着信があったなんて、結構な進歩じゃないかと。口喧嘩は毎日だったが、じっくり真面目に語り合う事は少なかったと思われる2人だ。弱音や泣き言じゃないにしろ、電話を掛けてきた、という事実が喜ばしいと思うのだが。
「あいつの携帯を取り上げておいて正解だぜ…」
ブツブツと低音の小声で唸っている彰彦に、佐古は溜め息をついた。
意地っ張り同士は、端から見ていて疲れる。
マンションに到着すると、彰彦は無言になった。
落ち着いてくれたのではなく、怒りゲージが頂点を突破しているのだ。
エレベーターのボタンを押しながら、ドアを開けながら、佐古は思う。
いっその事、逃げていてくれていた方が良いのかもしれない。
そんな彼の小さな期待は、あっという間に打ち砕かれた。
呼び鈴を鳴らすと、玄関は内側からきちんと開けられた。
「…いらっしゃいませ…」
「須和」
青ざめた…というより、顔面蒼白の須和が登場したのだ。
ここが墓場なら火の玉を背負っていそうな顔色に、流石に怒り中の彰彦の眉間もひそめられる。
何があったのかと思って、佐古は玄関で息を飲んだ。
…遊莉の靴がある。
「まさか…」
「入るぞ」
それには気付かない彰彦が、佐古を避けて中に入って行った。
ちらりと佐古と視線を交わす須和。
ああ、何が起きているのか想像したくないような…
リビングに入って行った彰彦の背中に、次の瞬間には怒声でも響くのかと思った佐古だったが、それは聞こえては来なかった。須和が小さく呻いて頭を抱えている。一体何事か。そう思ったところで。
ガタっという物音が響いたのである。
「アキさん!?」
慌てて部屋に飛び込んで行った佐古は、そこである光景を目にする事になった。
「…何だよそりゃ…」
「あ、あはははは、お疲れ様でーす…」
頭を抱えて壁に寄り掛かっているのは、彰彦。
ソファでビール缶片手に寛いでいるのが、遊莉。
そして、遊莉と一緒にビールを持ち上げている文の姿が…
ショッキングピンクのバスローブだった。
正直な感想を言えば、物凄く似合っていないと思う。
自分自身の素直な感想も言えば、物凄く似合っていないと断言できる。
それが周囲の同一見解だと思いたいし、願いたい。
文の気持ちを理解していたのは、男達であろう。
「ふふふ、プレゼントしておいて良かった〜アキを骨抜き〜」と笑う遊莉だけが思っていないだろうが。
とにかく怒ってやって来る彰彦を宥めるのは大変だと須和が言うから、必死に作戦を考えたのである。
その結果、文の脳裏を過ったのはバスローブ。
「全てが萎える」
彰彦がそう称したバスローブである。
適当に荷造りをしたので、思いつきで持ってきただけだった。
「………お前…」
「………あは」
頭を抱えながら彰彦は文を見ると、深い深い溜め息をついた。
部屋に入ってきた瞬間は、確かに怒りゲージ満タンだった様子だったのが、今はそれが急速に下がった様子だった。
バスローブの効果の偉大さに文もビックリである。
彰彦の後ろから入ってきた佐古は、チラリと文を、そして遊莉を見て納得したようだ。
「詔司ぃ〜お仕事終了ぉ〜?」
「べろんべろんじゃねぇか」
呆れる彰彦をよそに、佐古に向かって投げキッスを飛ばす遊莉。
佐古の背後では須和が座り込んでしまっているのが、何となく哀れだった。
ホテルの家具の様なよそよそしさのソファに、彰彦と並んで座っている自分がおかしい。
頼むから着替えてくれと言われてバスローブを片づけている間に、彰彦以外がいなくなっていた。
遊莉は結構ビールが進んでいたから、佐古が連れて帰ったのだろう。
「飲むか?」
問われた文は首を横に振った。
酒にはあまり良い思い出も無いし、元々好きでも無い。さっきもポーズで缶を持っていただけだ。
彰彦もあまり好きではないらしいが、生憎とここには保がいないから、彼好みの紅茶は出てこない。単なる咽の渇きを癒す為にと、彰彦はそれを口にしている様だった。
横顔が珍しいわけじゃない。
だが、改めて眺めてみると、不思議な気がした。
「俺の顔が珍しいかよ」
「うん」
ぷっと笑って視線を逸らすと、傍らで呆れたような諦めたような吐息が漏れた。
「お前って…」
「何」
「…そんなに立科の野郎が好きか」
「好き、じゃないよ」
即答すると、彰彦が少しがく然としたようだった。
言われてみて、答えてから、文はじっくり考えてみる。立科さんの事は信頼してるし頼りにしてる。好きと言うなら好きの部類だが、きっと彰彦の言う「好き」ではないだろう。
彼と話をする事は文にとって、厳しい過去と現実を思い出す事でもあるのだ。
立科は文にとって大切な先輩である。
だから、彼を傷つける様な事だけはしたくないし、して欲しく無かった。
「…先輩かよ…」
疲れたように首を垂らす彰彦。
何が彼をそんなに疲れさせたのかは知らないが、文は彰彦の隣で微笑んでいた。
何となく窓からの風景を眺めていても、元気な声が聞こえてきそうな気分になる。
隣の体温が、心地良かった。
だから、ぽろっと言葉が口から零れていた。
「ホッとした」
「…あ?」
自分で言った言葉に驚いて、文は彰彦と視線を合わせた。
そして、改めて言葉を反芻して、文は顔を赤く染めてしまった。
「何でもないっ」
「何だよ、良いじゃねぇか、別に」
「良くない!」
「俺の顔見てホッとしたんだろ?」
「してません」
「したって言ったじゃねぇか!」
「気の迷い!寝不足なのよ、私!疲れてて…」
「俺がいなかったから?」
「慣れない布団だったから!!」
身を乗り出してくる彰彦から逃れる様に、文は立ち上がった。
遠ざかろうとした文の腕を、彰彦が素早く掴んだ。
「寂しかったか?」
記憶の後ろ側を、遊莉の声が過る。
違う、寂しかったんじゃない。寂しいかも、と思っただけだ。
「…あなたは?」
一瞬言葉につまりながら、そう返すのがやっとだった。
そんな文を見つめて、彰彦がニヤリと笑った。
返事を誤魔化したのをお見通しと言った顔に、ちょっとだけムッとするが。
「ホッとしたさ、たった今な」
ふっと腕を離した彰彦は、そう呟くとソファに深く身を沈めた。
意外な面持ちで見る文を気にせず、彰彦は静かに遠い景色に目をやる。
「お前、俺には何も言わねぇから」
「…そんな事…」
「仕事だの何だのって、肝心な事は言わねぇだろ」
文は少し息を飲んだ。
「俺に、言えよ」
黙っている文を振り返り、彰彦は真面目な顔で言った。
「ちゃんと聞くから」
まずは、俺に言えよ、と。
部屋に静かな空気が流れ、街のどこかで鳴る音が僅かに響きを残した。
彰彦に本心を隠しているわけじゃない。
彰彦は文を気遣って情報を秘しただけ。
別に、お互いをないがしろにした結果ではない。
私達は言葉が足りていない。
「口数は足りてると思うのに」
思わずクスッと笑った文に、彰彦が少し目を丸くした。
思いは伝わったのだろうかと、一瞬訝しんだ、次の瞬間。
「立科さんにヤキモチやいたの?」
あは、と文が思った事を素直に口にしていた。
保達が頑張って、部屋を大急ぎで片づけた。
とにかく全ての痕跡を立ち切ってからでないと、文が戻ってこれない。そう思って頑張った3人と途中で何だか全身疲労状態で加わった須和の努力の甲斐あって、佐古が再び文のマンションへ向かってみると。
もしかして、邪魔しちゃ悪いだろうか…
そんな前向きな彼の懸念は、部屋に入る前に簡単に砕け散った。
「全部言えって言ったの自分じゃん!!」
「誰がヤキモチだこのやろう!!」
ドシャンガシャングワッシャン!
何が起きているのか目にしたくない。
佐古は呼び鈴も鳴らさずに、黙って携帯電話を耳に当てた。
そして、保達を呼び出す。
「ああ、悪いが…片づけをもう1軒頼む」
佐古の言葉に、電波の向こうで盛大な抗議が上がった。
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