No Brand Saurus

荒神の屋敷は、まるでお寺の様な荘厳さに満ちている。
白い砂利は流れる川の如く。
頭上を揺らす木の葉は波打つ絹の如く。
磨き抜かれた木の床は、フローリングと呼ぶのは憚られる雰囲気だった。

前回来た時の自分を思い出すと、二の足を踏む場所だ。
前回と同じスーツの男性が対応に現れたとなれば、それは加速する。


それはまるで死神からの召集令状。
よく考えても考えなくても、あの好々爺然とした荒神が恐ろしい人物なのだと判っている。
彰彦を怖がるどころの話じゃないのも判っている。
そんな人から「お茶においでよ」と連絡が入ったのは、つい先日の事。
知らぬが仏。
知らないからこその暴挙。大暴挙。
そんな荒神に銃口を向けたのは、紛れもない自分のこの両手だと思うと、思い切りゴシゴシとすり合わせたくなる。別にそうしたところで過去が変わるわけでも消えるわけでも暖まるわけでもないのだが。
「何してんだ?」
「緊張してるの」
ゴシゴシとしつこく手を合わせる文に、彰彦が少し顎を捻った。
一緒に荒神を待つ部屋にいるのだが、何を思ったのかその腕が文の肩を抱き寄せた。
ぐいっと大きな手に肩を掴まれる。
「……何してるの?」
「愛情表現」
返事の代わりに手の甲をつねってやった。
「何しやがる!」
「そっちこそが何してんのよ!」
「リラックスさせてやろうとしたんじゃねぇか!」
「するわけないじゃない!!」
座布団を跳ね除ける勢いの文に、彰彦も勿論負けたりはしない。
最近の2人といえば、何かと言うとこんな衝突の繰り返しである。正直なところ、相性が悪いのではないかと、どちらも思わないでもない。それなのに彰彦が文を手放さないでいる理由には、お婆の予言がある。
良い機会だから、尋ねてみようか。
「人の気遣いってもんをだなぁ!」
「気遣うんなら、もっと他の事を気遣ってよ!」
「おやおや」
睨み合っていた2人の合間を縫うように、飄々とした風が声を運んだ。

部屋に入ってきた気配がしなかったのに、そこにはお茶を啜る荒神の姿がある。
「世界をグルリと回ってもみたいんだけどねぇ」
チラリと見るのは、彰彦の顔。
それには流石の彰彦も文に対しての様に言い返したりは出来ず、ただ小さく咳払いをするだけだ。
「ま、お嬢さんが元気になったみたいだし、これから…だよねぇ?」
「勿論です」
何がこれからなのか、文には判らないし判りたくも無かった。
ただ、確かに最近の彰彦の忙しい様子は知っていたし、自分の怪我の様子を見ながら家にいる時間を調整している感じもしていた。恐らくこれからもっと、彼は忙しくなるのだろう。
ぼんやりと出されたお茶を見る。
ゆらゆらと揺れる緑面に小さな影。茶柱だ。
吉兆のはずだが、何故だかその揺らめく小さな姿が、自分の足下を映しているかのようだ。
フワフワとした座布団が、フラフラとした不安定な斜面に変わる。
これから、彰彦は忙しくなる。
「…私、働きたいなぁ」
小さく呟いた声に、何故か彰彦が目を丸くした。

急に彰彦の機嫌が急降下していた。
荒神の前を辞してから、気のせいかと思っていたそれが顕著になり、気のせいではないと確信する。
車の後部座席でも、家に戻ってからも、前髪の上がった額に寄った皴。
そして煙草を吸う仕草が。
「……何か…」
「何だ」
「………何でもない」
何何と響く車中の空気に、運転する須和もバックミラーから視線を投げて寄越した。だが、彼は特別何があったかと尋ねたりはしてくれない。助手席の佐古もまた同じくだ。彼らの方が文より遙かに彰彦の感情に聡いのだから、それが正しい対処方なのかもしれない。
あっという間に溜まった、まだ長いまま消された煙草の吸い殻。
触らぬ神に祟り無し。…自分も煙草の様に折られては堪らないと、文は内心で舌を出した。
「お帰りなさい」
キッチンから届く保の穏やかな声にホッとしながら、文はその巨体に隠れる様にキッチンへ走った。
保の手元では、ジノリのチェリー柄のカップが並べられているところだった。文の好きな柄だ。彰彦はジノリならコラッロの珊瑚色がお気に入りだったはず。
「何だか空気が騒めいてますからね、白の方が良いでしょう」
保の気遣いに文は首を竦めた。
確かに、今の彰彦に目に鮮やかな色は刺激剤にしかならなそうだ。
「文さん、そこの缶を…」
「はーい」と文が棚上に手を延ばそうとしたところで、リビングで険しい声が上がった。

何事かと思えば、彰彦が携帯に耳を当てて険しい顔をしている。
佐古も携帯を取り出して須和と何やら相談をしているから、仕事のトラブルでもあったのかもしれない。
「どんどんささくれ立っていく…」
「ジャムを出してロシアンティーにしましょうか」
「ブランデーの方が良いんじゃない?」
まろやかになりましょうよ、と2人で笑い合う。
隣に並ぶと体の幅が倍はあろうかという大男なのだが、本当に手先が繊細だ。
太い指先から繰り出されるのは、魔法なんだろうか。出会った当初の怖いイメージはいとも簡単に粉砕されて、今では文の中で見る影もないくらいの記憶と言う思い出に変わっている。
ただ、この人が竜の前歯を折ったのか…と思うと、どうも奥歯が噛み合わないのだが。
「…何か鳴ってませんか?」
「え?」
あ!と気付いたら、文の服の中で携帯電話が振動していた。

『体の調子はどう?』
電波の先から流れてくる立科の声は、懐かしくもあり、文の心をくすぐる響きを持っていた。
リビングの物々しい雰囲気から逃れてカップを手に部屋に戻った文は、ベッドに腰かけながら「社会との接点」を意識した。
この人と一緒に働いてたんだよなぁ。
先日の一件以降、東京に戻っていた立科は、時折こうして連絡をくれる。
打撲が辛くてがちがちの声帯から声を絞り出した時には、今から警察と一緒に乗り込もうか!?と大騒ぎをしてくれた彼に感謝しつつも必死に「それはやめて」とお願いした。説明がとても難しかったが、何とか理解して貰えたと思う。不思議な不思議な、今の自分の状態を。
それでも彼は「そこを出た方が良くないか?」と確認するのを忘れはしないが。
『仕事?』
「体が治ったら私、やる事ないんですもん」
家事は保や竜が行っているし、元々いた会社は遠く東京の地、まさか彰彦の仕事を手伝う事も出来ないし。
『習い事とかじゃなくて?』
「やだ立科さんったら、私にそんな余裕ないですよ〜」
『え、いや、余裕って、でも…まぁ、そうなのかなぁ』
文は一人暮らしの頃の感覚で、空中に向かってブンブンと手を振った。かつかつで生きていた頃は、どう逆立ちしたって習い事の費用なんて出ては来なかったのだ。本当にひっくり返った拍子に100円玉が落ちてきてラッキーと拾った事はあるが。
「仕事して、自分の生活費くらいは稼がないと…」
『…強要されてるわけじゃないよね?』
「まさか!」
あははと立科の心配を笑い飛ばしてから、内心で「まさかでも無いのかな」と思ってみたりする。だが、間違いなく彰彦から生活費の請求なんて事は、された覚えが無い。
「ただ、色々と考えちゃうんです…いつまで今の状況が続くか判らないし、いざという時の為にも仕事していたいなぁって。何かしてる方が片方のロープを切られても、いきなり落下はしないじゃないですか」
いざという時、と想像してみる。
それはお婆の予言が効力を失った時か、彰彦の我慢が限界に来た時か、彰彦が飽き飽きとした時か、それともそれとも…いずれにせよ、今の文はジャングルの中のつり橋なのだ。
『とりあえず、何かアルバイトから始めてみたら?働く事、俺は良いと思うよ」
「そうですね…」
俺は、にアクセントを置いた立科の言外の意図に気付いて、文は笑った。
立科が良いと思っても、さて彰彦がどう思うかは…
そう思った瞬間、文の手の中にあった携帯電話が、宙に浮いた。

見上げると、彰彦が取り上げた電話の通話を切ってしまったところだった。
「ちょっと!」
「誰と何くだらない話をしてやがる」
「誰とでも良いし、くだらなくない!」
むっと唇を尖らせた文に、彰彦はささくれ立った気配のままだ。相手が立科だとは判っているのだろう。
「何の不満があるんだか知らねぇが、こそこそ電話してんじゃねぇ」
「掛かってきたのよ!誰がこそこそするもんですか!」
それに抱えているのは「不満」じゃなくて「不安」だと言おうとした文は、しかし彰彦が放り投げてきた物を見て咽がつかえてしまった。
ベッドにぼすんと落ちた、大きなボストンバック。
「荷物詰めろ」
「……旅行?」
2泊3日でもまだ余裕がありそうなバックだ。文は荷物が多くないタイプなので、これなら1週間くらいの旅支度が入りそうだった。
何かと思っていると、「暫く暮らせるだけの荷物を詰めろ」と彰彦が言う。
まさか本当に旅行をするんだろうか。
「あと、これだ」
続けざまに放られてきたのは、携帯電話。
しかし、それは文の物ではない。彼女の電話は彰彦に取り上げられたまま。
「これは何?」
「俺以外に電話するなよ」
彰彦との連絡用という事は、彰彦とは別行動になるという事か。
全く何事が起きようとしているのか判らない文に背を向け、彰彦が言った。
「準備が出来次第連れていく」
それは、部屋の外にいる佐古達に向けられた言葉だった。


大きなボストンバック1つを持たされて。
文が連れて行かれたのは、小奇麗なマンションの1室。
人の住んでいた気配は薄く、ただTVやベッドなど必要最低限の生活用品は揃えたという体だ。
ポツンとそこに立たされた文の背後で、ドアが閉じる。
「ちょっと?」
「…俺以外に連絡するなよ」
さっさと背中を向けて出て行こうとする彰彦を、文が慌てて追い掛けた。
これは一体何事なのか。
「ねぇ、ちょっと…!」
「何かあるなら、まず、俺に言え。良いな?」
「………何かって…」
今のこの状況こそが「何か」にしか思えないのだが。
困惑して立ち尽す文を残して、彰彦の姿がドアの向こうに消えた。
ご丁寧にガチャンと掛けられた鍵の音が、文の脳裏に「檻」を連想させるには充分な重さを伴う。
「何かって」
何よ。

呟いた文の背後で、青空とその下に広がる街並みが静かに佇んでいた。










初出…2008.8.25☆来夢

□ブラウザバックプリーズ□

実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。