No Brand Saurus

頭の中で柿本が笑っている。
ニヤニヤと煙草の脂の染み付いた歯を見せながら、ニヤニヤと笑っている。手の指を扇の様に広げて向けてくるのが、嫌らしくて大嫌いだ。制服姿が萌える?色気が出てる?普段は色気ナシって言いたいのか。近寄るな、触るな、馬鹿、あっち行け、ちょっと、乗っからないで、止めて、臭い、気持ち悪い、本当に…勘弁してよ!
「…っ!」
ハッと息を飲んで目覚めた。
目に飛び込んできたのは、白い天井。
そして、力を込めた脇腹に走る、鈍い痛みだった。


文が瞬きをする周囲を、巨躯の男が静かに動いて回っている。体を動かさないまま、文は視線だけでその男の姿を追った。
「保さーん、アキさんそんなに遅くならないって。コスプレ女はどうだって言ってる」
「ああ、まだ眠ったままだ」
若い男の声がして、その男は静かに頷いた。
保というらしい男は見事なスキンヘッドに、口髭を蓄えている。何だろう、筋肉隆々な腕に見えるのは、鎖のタトゥー?
この人、誰?
私、どこにいるの?
段々と文の呼吸が荒くなってきた。不快な夢、鈍い痛み、見知らぬ部屋、見知らぬ男。これが落ち着いていられるか、という条件のオンパレードだ。耳の中で反響するくらいに、心臓が激しく鳴り始めた。あまりに強烈なので、体も震えている気がしてくる。それでも、視線だけは保という男から逸らせずにいると。
「…ん?ああ、気付いたのかな」
くるり、と突然彼が振り向いた。
その瞬間、男の案外丸くて可愛い瞳と視線がかち合う。
腕だけではなく、彼の首筋から鎖骨へかかるタトゥーにも気付いて、文は口を開いた。
勿論、悲鳴を上げる為に。


携帯電話の向こうで、女の悲鳴が響いた。
慌てて「目が覚めたみたいだ」と説明する弥彦に、須和はやれやれと肩を竦めた。これだから女は嫌いだ。自分で拳銃の前に飛び出して来ておいて、何を叫んでいやがる。
あの瞬間こそ婦警が撃たれたのかと、面倒な事になるかもしれない、と思ったが。次の瞬間にはそれがコスプレ衣装だと気付いて、胸を撫で下ろしたものだ。
荒神の邸宅に逆戻りした彰彦は、再びかの老人に会うべく姿を消している。須和は1人戻ってきた佐古の視線に口を開いた。
「女は漸くお目覚めです。うちんとこの女じゃないです」
予想していたのだろう、佐古は小さく頷いた。
まさか自分の管轄のイメクラ嬢が、真っ昼間から「仕事着」で街を闊歩していたのかー。そんな疑惑はちゃちすぎる衣装で、すぐに投げ捨てられた。が、万が一にと確認作業だけはしておいたのだ。
「ネズミが来てる」
佐古が小声で言った。
彼の車は見えなかったが、後で迎えに来るのかも知れない。
彰彦達が立ち去り、そして戻ってくるまでの隙間にやって来たのか。
「そっちの確認はまだです」
須和も小声で返した。
彰彦を撃とうとした(結果的に女を撃った)男の写真は、関係者の携帯電話に飛ばしてある。
十中八九、根津の手下だろう。
彰彦を一番疎ましがっているのが、根津なのだ。勝手に、荒神の跡目争いのライバルと思っている。
何より、荒神の屋敷からも程近いあんな場所を襲撃ポイントにするなんて、いかにも頭が悪い根津の印象にぴったりだった。
しかし、証拠は無い。


銃撃の事を聞いた荒神は、得に表情を変えたりはしなかった。
「災難だったな」
一緒に彼と面会し、その話を同じ部屋で聞いていた根津が笑う。
廊下に出た彰彦は、相変わらず黒ずんだ出っ歯だと思いながら肩を竦めた。
根津…彰彦より数年早く組を開いたが、あっという間に後陣である彰彦に規模も勢力も追い抜かれた男。
荒神が心配しなかった事を、自分に有利と思ったのだろうか。
…荒神は滅多に表情を変えたりしない。むしろ彼が微笑んだりしたら、それこそ恐怖だ。あの年まで戦い抜いた一見すると好々爺は、最早怒りや不快という感情を笑みに昇華する術を心得ている。
上手く処理してしまわないと、と思う。
この自分より15年上のネズミの始末をつけなくちゃならないなんて、面倒だというのが本音だが。
黙っている彰彦に何を思ったのか、根津がポンポンと肩を叩いてきた。
「俺も何か判ったら連絡するよ」
「…どうも」
ひっひっと小さく笑いながら、根津の少し丸まった背中が遠ざかった。
ひ弱なサラリーマンに見えなくも無いが、馬鹿なだけ性質の悪い男だ。弱い物にはとことんつけ込む。
反吐が出るな、と思った彰彦は、その吐息を飲み込んだ。
「見つけたね、女を」
「っ!」
突然背後から響いた声に、思わず背筋が伸びてしまう。
振り返ると、真後ろに御婆がいた。

気配なんて感じなかったのに。
「良いじゃないか、テンションを下げるんじゃないよ」
「…やっぱり、あれが」
ニヤッと笑う御婆の口元が怖い。
ネズミもどうせならここまでの迫力を持てば良いのに、そうすれば真剣に潰してやろうとも思えるのに。
彰彦は自分の背中に去った筈の根津を想像しながら、同時に銃で撃たれたところを車で運んだ女を思った。
馴染みの医者に診せた後で、彰彦の自宅に連れて行かせた。
元看護師だった保の医療知識で、充分看病可能と判ったからだ。
「テンションって…」
「さてね、せいぜい大事にすれば良いさ」
突然現れて、突然去っていく。
荒神の居る部屋に消えた御婆を見送って、彰彦は暫く立ち尽した。
静かに、胸の内に広がるさざ波を感じながら。

大丈夫だから、大丈夫だから、と保が言う。
何が大丈夫で何で大丈夫なのかが、文には全然判らない。
ぎゃあぎゃあと自分でもどこから出るのか不思議な悲鳴を上げながら、文は必死にベッドから逃げようとした。しかし点滴が繋がった腕と、そして脇腹に走る痛みでへたりこんでしまう。
赤い顔をして嫌な汗をかいた文を、保がそっと横に戻した。
「熱が出てるからね、大人しくしてなきゃ駄目ですよ。大丈夫、大した傷じゃないから」
巨体に似合ったゴツイ指が、そっと文の額に張り付いた髪の毛を払いのけてくれる。
傷と聞いて、文の記憶が蘇った。
そうだ、銃を構えていた男と、パンという音の後で記憶が途切れたのだ。
「私…」
「1.2週間も安静にしてれば、すっかり元気になるから」
「…そうじゃなくて、私は一体…!」
「着ていた服なら、破損したから始末させて貰いましたよ」
あの婦警服か、と文はうんざりした。あんなもの、煮るなり焼くなり好きにすれば良い。
「私、撃たれたの?」
保がニッコリ笑った。
「かすっただけですよ、文さん」
何で、私の名前を知っているんですか。
そう尋ねてもまともな答えは返ってこなそうな気がして、文は深い溜め息をついた。

春日文と記された免許証を見ても、特別な感慨は沸いてこなかった。
「東京の女じゃねぇか」
今度こそ帰宅の車中で、彰彦がつまらなそうに呟く。
気を失った彼女の手荷物は、小さなスポーツバック1つだった。婦警が制服姿で持ち歩く物じゃない。
「旅行者?」
「多分な。…だから忠信、顔が怖いっつってんだろ」
またもやバックミラーで険しい顔をしている須和に、彰彦が呆れた。
話をしているだけなのに、女嫌いもそこまでか、と思う。
「あの女…家に置くんですか」
「もう連れてっちまったんだ。当たり前だろ」
「俺、女がいるなら泊まりませんよ」
「元々俺の家は合宿所じゃねぇんだよ!」
ハンドルを切りながら口元を歪める須和と、面倒臭そうに顔をしかめる彰彦のやり取りに佐古が静かに笑った。
彰彦の家は閑静な高級住宅地にある一戸建てだ。マンションも幾つか所有しているが、そこが本宅となる。独身の彼の身の回りの世話は、主に保が住み込みで行っている。基本はその2人暮らしなのだが、部屋が余っている事と彰彦の「勝手にしろ」という姿勢から、常に何人かの男共が共同生活をしているのが常だった。今は彰彦・保の他に、弥彦と竜がいる。佐古と須和も、時々泊まる事があった。
「どっかのマンションに閉じこめておけば良いじゃないですか」
「お前、俺に通い婚でもしろってのか」
「結婚する気ですか!?」
「先走るなよ!」
女と結婚なんて考えただけで、須和の全身に鳥肌が立った。指先から足の付け根までゾワゾワとする。
女遊びなんて当たり前、女なんて道具、という男達が多い世界で、女に然程趣味が向かない彰彦だから安心して付いてきたのに。
「…俺はホモじゃねぇからな」
「俺だって違います!」
男といちゃつくなんて論外だが、女と触れ合う事も論外だ。そう息巻く須和の神経質な叫びに、もう何も言うなと彰彦が手を振った。
しかし、実際問題として御婆の予言していた「運命の女」が「文」なのは間違いなさそうだ。
「賽は投げられた…んでしょうかねぇ」
荒神が何故かこだわり続けた彰彦の結婚と、御婆の予言した運命の女。
それが静かだった水面に投げ込まれ、じわじわと波紋を広げていくのだとしたら。
佐古の呟きに、彰彦がもう一度、手にした文の免許証に視線を落とした。
こいつが、運命の女神なのか?

「お金も土地も財産もありません。だから帰して下さい」
それが、彰彦の女神(かもしれない)の第一声だった。
熱があり傷が痛み動けない文が、唯一自由になる思考で導き出した回答による発言が、それだったのだ。
つまり、銃で撃たれた→ヤクザの抗争→自分はコスプレしてた→秘密の趣味かもしれない→脅せる→金を取る→つまり営利誘拐みたいなもの…という結論に辿り着いたのだが。
「面白ぇな」
端からも想像できる単純思考に、一応自己紹介をした彰彦は半分感心してしまった。
しかし申し訳ないが、わざわざ通りすがりの女を脅す程に金に困ってはいないし、そもそも売り飛ばす気ならここには連れて来ない。
「容体は」
「やっぱり銃の事ですから熱が出てますね。まぁ安静が一番ですよ」
「そうか、なら寝てろ」
「ちょっと!」
脇に控えていた保の説明に頷いて、彰彦はさっさと部屋から出て行こうとした。その背中に文は待ったをかける。
「説明は!?」
「…逃げたら殺す」
ちらりと振り返った彰彦は、それだけ言うとさっさと姿を消してしまった。
混乱の崖っぷちにいる者に対して、手を差し伸べるのではなく辛うじて引っ掛かった手を靴で踏むような態度だ。それでも突き落とされてはいないと、文は踏ん張るしかないのだが。
愕然としている文に保が少し慌てて声を掛けた。
「大丈夫だから」
彼の大丈夫はこれで何度目か知れないが、ただの一度も大丈夫と思えない。そう呟いて文はベッドに沈んだ。










初出…2007.12.25☆来夢

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