No Brand Saurus

雨は嫌いだ。
シトシトと音も無いのにそんな形容をしたくなる、雨が嫌いだった。
どうせ降るなら勢い良く音を立てて、これでもかと地面を叩けば良いのだ。いっそ濡れても諦めがつく程に。今日みたいな雨は、気がついたら全身がしっとりと水分に包まれている気がして不快だ。
「案外冷えるのはこうゆう雨だしね」
クシュンと小さなくしゃみをした文に、彰彦が無言で上着を投げた。
部屋には適度に暖房が入っているのだが、窓の隙間から透明で冷たい気配が忍び込んでいる気がした。
「お前、もう寝ろ」
「嫌ですー!」
「……っ」
ガタンと立ち上がった彰彦と舌を出した文の一触即発の空気を他所に、保が暖かいコーヒーを煎れてくれた。竜のマグカップにはたっぷりのミルクも入って、色が可愛らしい茶色に染まっている。
「お子ちゃま」
「胃に優しいんですよ。ってか、あの、アキさんと文さんが…」
ドタバタという音が聞こえ始めたが、俺はそれを無視してカップを手にリビングを後にした。
これでも真面目に仕事をしているのだ。
可愛いマシン達が俺の戻りを待っている。
須和の見舞いから戻ると、彰彦と文の諍いが続いていた。
よくもまぁ飽きないものだと思いつつ、ああしてお互いの理解を深めているのだろうな、とも思う。
PC達から発せられる熱で、俺の部屋はリビングより暖かい気がした。彼らの静かに存在を主張する音が、シトシトと透明な音を打ち消してくれる。
ズズ…とコーヒーを啜りながら、マウスを手に画面を見る。
だが、視界に飛び込んできたのは言語の羅列ではなく、雨に濡れた竜の姿だった。

竜を拾ったのは俺だ。
マシンの部品を調達しに寄った電気街の片隅で、段ボールと一緒に雨に濡れて灰色に染まっていた。所々が黒ずんで見えたのは血の跡だと、雨の中でも働く嗅覚が告げる。
こんな家業の家にいるくらいだから、俺も多少の修羅場はくぐってきた。
血みどろの生ける屍なんぞ、珍しくも無かった。
気になったのは、放り出すように伸びた二本の足。
「どこのスニーカーだ?」
「………知らね」
鼻を啜る音と一緒に短い返答が来た。
右手に傘、左手に収穫品を持っていたので、足で目に付いたスニーカーを蹴飛ばしてみた。本当はスニーカーより足そのものに目がいったのだが。
まるでカモシカの様な、ってやつか?
「バッシュじゃねぇよな」
「短距離用だよ」
「ふぅん。走るのか」
「………」
尋ねると視線を逸らされた。
雨と血で濡れた顔を見れば、まだ幼さが残る顔つきだ。青年より少年が近い。
もう一度蹴飛ばしてみると、キッと眉根を寄せて見上げてくる。
「場違いなんだよ」
「…………知るか」
「何した?」
「………知るか…って」
三度足を蹴った俺を睨みあげる幼い男に、黙って先を促した。
血みどろの生ける屍なんぞ、珍しくも無い。
珍しいのは、この活きている足だ。
傘から滴った雨粒がその足に落ちて跳ねる。
「八百長レース」
「…ああ」
弱みでも握られたか、大切な人を人質にでも取られたか。
健全なスポーツの世界が裏でどんな糸引きをされているかなんて、知らなくても良い事だが。
「…もう、戻れね…」
「ああ、そうだな」
詳しい事情なんて聞く気は無かった。もう充分だ。このままいけば、こいつは両足を切られて海に沈んでるだろうな、なんて思う。戻れなくしたのも、するのも、要は自分だ。
こいつが何を失ったかなんて、知りたくも無い。
「最初からしがみついてないからだ」
「………」
鼻を鳴らす音がする。
一度は受けたレースを二度は断ったのか。こんなところで転がっていればいずれ見つかる。
チラリと、足を見た。
「走れるのか」
「…あ?」
「来いよ」
手も貸さずに踵を返した俺に、やけに白目の目立つ眼がキョトンとしていた。


傘も貸さずに連れて帰ったから、ぬれねずみもいいところだ。
だが、「ぬれねずみ」と言うと彰彦が顔をしかめるから、咽の奥で止めておいた。ネズミという単語が好きじゃない理由はよく分かっている。
佐古が向けてきた視線は、可も無く不可も無く。決めるのは彰彦だ。
「食べますか?」
得体のしれない若造にも、保の姿勢は変わらない。
彼が出してくれたサンドイッチをぼんやり見つめ、ぬれねずみが手を伸ばす。
一口食べ、止まる。
二口食べ、三口食べ。
食べると気合いの伺えない手から、パンがテーブルに降りた。
保は黙っていた。
俺も黙っていた。
ぬれねずみの目が、食べかけのパンから他の食べ物に移った瞬間、ガッという鈍い音が響いた。
音の聞こえる場所に彰彦も佐古もいたが、特に関心は向かない。
俺は足下に転がったぬれねずみを見下ろして、その驚いている顔を眺めた。
「考え無しに手を伸ばすんじゃない!」
「……っ」
保の低い声は滅多に聞けるものじゃない。
巨大な体躯に似合わず、彼は常に穏やかだから。誰よりも凶暴そうに見えて、誰よりも穏やかだから。
そんな彼は、食べ物を粗末にする奴を許さない。
「残しても構わないから、しっかり、食べなさい」
低音は一瞬だけで、次は元通りの声になっていた。
何事も無かった様にキッチンに戻る彼の姿に、殴られた口元を押さえるぬれねずみが呆然と俺を見上げる。
俺は肩を竦めた。
ぬれねずみの手が口から離れた。
その手に平に、折れた歯が一本だけポツンと転がっていた。
じっとそれを見つめる背中に彰彦の声がかかったのは、唐突だった。
「お前、名前は?」
「………竜」
「です、だろ」
「…竜、です…」
俺の訂正を受け入れて、竜は素直に言い直した。
「りょう、ね。弥彦、風邪引かすなよ」
「えー俺ですかー?」
「てめぇが連れて来たんだろうが」
面倒くさそうに言う彰彦に口を尖らせたが、代わりに佐古が苦笑を零してくれるだけだった。
不思議そうにやり取りを見ていた竜を見下ろして、俺は溜め息をつく。
確かに、俺が連れてきちまった。
「しがみつけよ」
言うと、竜が息を飲んだ様だった。
どうせあのまま外にいたらどうにかなっていたのだ。ここが天国か地獄かは判らないが、生き残るきっかけには違いないだろう。
彰彦が受け入れたのだから。
「…あの、何で、俺…」
歯を失って喋り辛そうな竜を振り返ってやった。
「その足、もったいねぇじゃん?」
事実、声を掛けた理由はその足だ。
活かすも殺すも腕じゃなくて、足次第だったってわけか。


彰彦の周りには、いつの間にか人が集まる。
思い出から抜け出して、黙ってキーボードを叩いていた俺の耳に、賑やかな声が響いた。
どうやら廊下の向こうで文と彰彦がまだ戦っている様だ。
本当に飽きない2人だ。
「拉致監禁って言葉を知ってる!?」
「お前こそ怪我人って言葉を知ってるか!?」
「私はもう治ってますー!」
「そうゆうのを油断だ過信だっていうんだよ!」
わーぎゃーと言い合う2人の根気に乾杯したい気分だ。
以前の彰彦であれば3分で放置していただろう。後は佐古が引き受けるから問題無いとばかりに。
だが、3分はとっくに経過している。
宇宙からの呼び出しは遠のいたのだろうか。
地球に根を張れる様になったのかもしれない。
「どうせ外は雨なんだ、家の中にいた方が良いだろうが!」
あーだこーだと言い合った末に彰彦が持ち出した武器は、天気。
確かに雨の中の外出はあんまり好きじゃない。
また拾い物をしてしまいそうだし。
「………晴れたら外に出ても良いの?」
文の答えは当たり前に想像出来るものだったが、あまりの単純さに噴き出してしまいそうになった。
「………俺と一緒なら」
彰彦の回答は絞り出すような声だった。
途端に「えーっ」という抗議を食らう彼の顔を想像しながら苦笑を零すと、チャイムが鳴る音がした。
竜の応答に出る声。
そして、ドタバタと慌ただしくなる動きに、俺は嵐の訪れを理解した。
「やだアキったら、廊下で文を襲ってる〜〜〜〜っ!!」
「馬鹿野郎!」
遊莉の叫び声に飛ぶ彰彦の怒声。
ああ、こんな中に須和が戻ってきたらどうなるだろう。

…かなり笑える事になるに違いない。

雨は嫌いだ。
だが、この賑やかな家の気配は悪くない。
作業のBGMにもなるしー。
腕まくりをした俺に、「兄貴〜〜っ」と竜の呼ぶ声が響いた。




いや、その修羅場には巻き込まれたくない。










初出…2008.7.1☆来夢

□ブラウザバックプリーズ□

実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。