No Brand Saurus

彰彦は外食が嫌いだ。
電話を受け取った俺は、この家の主人である彼の帰宅時間を聞きながら保さんを振り返る。
大丈夫、アキさんが帰る頃には昼食が出来上がってます。
そんな言葉を心の中で思いながら、静かに受話器を置いて。

「あ、雨だ、洗濯物…」
「俺が行きますよ!」
保と一緒に昼食の支度をしていた文の呟きに、立ち上がったのは竜だった。
朝は青空だった窓の外に段々と怪しい雲が立ちこめ、とうとう雨が降り出したという体だ。それを恨めしく見上げる文は、そろそろここで暮らし始めて3桁の日数になろうとしている。
「弥彦さん、今日は須和さんの病院に行くんじゃなかったっけ?」
雨が降り出しちゃったね、と言う彼女に俺は頷く。
「そろそろ退院だから、無理して行く事もないんですけどねぇ」
「寂しがるよ」
「どうかなぁ、ただ、色々と苦痛ではあるみたいっすけどぉ?」
あの女嫌いが入院したと聞いた時、真っ先に頭に浮かんだのはナース達の姿だった。白衣の天使と称される彼女達が、患者である須和にどんな苦痛をもたらすかを考えると、可哀想なのに笑えてしまう。
なまじ彼が2枚目なのも災いしているのだが。
「私もお見舞いに行こうかな」
くっくっく…と意地悪に笑う文も、先日負った全治2ヶ月の怪我がやっと治ってきたところだ。
彼女は彰彦が自宅に連れ帰ると言い張った為に、懇意の医者が折れて入院はしなかったので、保が献身的に看病し続けていた。彰彦は須和もどうかと言ったらしいが、これは須和本人に拒絶されたらしい。


「女と同じ屋根の下に住むなんてご免です!」


そう叫んだ彼に、彰彦と佐古は思ったと言う。

…お前、病院にはナースが沢山いるんだぞ…と。

「それを言ってあげない辺りが意地悪よね」
もしくは私を病院に放り込めば良かったのに、と肩を竦める文に、俺は「そうっすねぇ」と曖昧に頷いた。
須和にとって本当に脅威だったのは、時々見舞いにも現れるという遊莉の方だったのかもしれない。ここにいたら彼女の玩具になるのは間違いないので、彰彦と佐古もそれを天秤にかけて言葉をつぐんだんじゃないだろうか。
どっちにしても、可哀想な事だが。


それにしてもと、文は壁掛け時計を見上げた。
「昨日から徹夜で仕事してたのかなぁ?」
「色々と作業が立て込んでますからね」
保の大きな体が華奢な皿をテーブルに持ってくる。綺麗に盛りつけられたそれは、3種類のパスタ。文のリクエストだという。
具体的に「何が」立て込んでいるのかは、誰も彼女に説明しない。
彰彦に口止めされているのだ。
彼女もまた、何かを察してかそれ以上は踏み込んでこない。
案外とバランスは崩れる事無く、毎日は平穏に過ぎて行く。
文が戻ってきた竜に「ありがとう」と言っているところで、玄関の開く音がした。まるで保がパスタを用意し終えたタイミングを狙ったかのような彰彦の帰宅に、俺は少し笑ってしまった。

戻ってきた彰彦達と赤・黄・緑の三色麺を平らげてから、俺は竜を伴って屋敷を出た。
保が用意してくれた差し入れを、竜がしっかりと胸に抱き締める。
まるで雛を守るペンギンの如き姿に、見送りの文が苦笑を漏らす。そんなにしなくても中身は大丈夫だと言いたいのだろう。
「でも、万全を期したいんです!」
「須和さんの為…」
「ってより、保さんの為だよな」
え?と目を丸くした文に、しゃきんと背筋を伸ばした竜が大きく頷いて笑った。
二カッと白くて健康的な歯を見せながら。
「保さんに誓ったんですよ!」
そう言って、竜がポロッと前歯を一本抜いて見せる。
「え、ええっ!?」
突然の差し歯登場に文が驚くのは無理も無いだろう。歯並びばっちりの健康優良児にしか見えないのだから。しかも元陸上部。ここにいるのが理解出来ないタイプ。
「保さんにって…まさか、それ…」
あわあわと驚きながら、文はこっそりキッチンにいる保を振り返りつつ、竜の顔をまじまじと見つめた。
精巧なその差し歯は、他の歯が余りに健康的なので、それに釣り合うよう彰彦が特注で作らせたものだ。
「保さんに…!?」
「えへへへ」
褒められたわけじゃないのに、竜が照れたように笑う。
歯が一本欠けた状態なので、かなり間抜けだ。
「一体何があって」
「あーもう行かないと」
「ええ、でも、ちょっと、何で、えーっ!私も行こうかな」
腕時計を見下ろした俺は、竜と保に何があったのか興味津々な文をどうしたものかと思う。
竜は文が来るのかと目を輝かせているし。
こいつは単純にイレギュラーが楽しいだけだ。
「文さん…」
「だって、ここだと聞きにくい話とかじゃない?」
「文さん…っ」
「だって、あの保さんが…っ」
「文」
俺がそっと彼女の背後を指差さなくても、低く響いた一声で文の動きが止まってくれた。
そーっと彼女が後ろを振り向くと同時に、俺と竜はそそくさと玄関を飛び出した。竜はそれこそ差し入れが微動だにしないように抱き締めながら。
そして背後から聞こえてきた怒声罵声には、聞こえないフリをして。

文は基本的に外出禁止。
そう決めたのは勿論彰彦で、それに敢然と反対を表明したのは文だ。
とりあえず彼女がどうこう言ったところで、全治2ヶ月のおかげさまで文は外に出るどころの騒ぎではなかったのだが。その傷が癒えてきた最近は、彰彦と文の対立が日常化している。
「そんな事はどうでもいい」
「やつれてますよ、大丈夫ですか?」
家を出る際の彰彦と文の言い合いを、楽しそうに語る竜。
それをソファで聞いている須和は、心底げんなりとした顔で煙草の煙を細く吐いた。
個室の病室のテーブルには、保が須和の為にと作ったスコーンやらサンドイッチやらが広げられていた。彰彦といい須和といい、あの家の男達は酒よりも紅茶やそれに合う様な物が好物なのだ。
およそ生業と似つかわしくない。
まぁ保のこれを作る姿も、相当に違和感満載なのだが、目が慣れてしまっていた。
「早く退院したい」
「すれば良いじゃないですか。文さんも待ってますよ」
「出来れば悩んでねぇよ!しかも待たれても嬉しくねぇ!」
ぷはーっと煙を顔面に吹きかけられた。流石にむせる。
「あの医者、文さんを入院させなかった代わりに、俺は完治まで絶対退院不許可とか言いやがって…っ!」
「あ〜かなり揉めましたもんね、あの時」
隣でちゃっかりスコーンを食べまくっている竜も頷いた。
2人が病院に運ばれた後、彰彦は文を意地でも入院はさせないと言い張ったのだ。自分がこれから忙しくなる中で、文との間に距離を持ちたくなかったのだろう。勿論、根津の残党から文を守る為でもあった。現在この病院には、それと判らないように警護がついている。須和の身を守る為に。これ見よがしにそれと判る人間を病室の前に置く手もあったが、それもまた医者との大バトルの原因になった。色々な妥協をし合った結果が、今の状態なのだ。
「…っていうかな、竜、お前全部食っちまう気か?」
「あっ」
「あ!じゃねぇだろ!っとに…確かに俺一人じゃ食いきれねぇけど…」
「残しちゃ絶対駄目だって思ったらつい」
はーと呆れる須和に、竜が照れ臭そうに頭を掻いた。誰も褒めていないのだが。
「そうか、お前って確か…食い物粗末にして保さんに殴られたんだっけ?」
「えへへ」
「えへへじゃねぇよ。雨の中、お前を拾っちゃった俺まで肩身が狭かったんだぞ!」
須和の声に笑う竜の頭をポカンと叩くと、初めて会った日の光景が脳裏を過った。
それはとても寒い冬の雨の日。
今日のように、窓を細かい水滴で覆われた日。
ふと窓を見つめた目に、白いナース服が飛び込んできた。
「…うっ」
須和が息を飲んでベッドに飛び込む。
何事かと振り返ると、ノックもせずにドアを開けたナースがいたのだ。
「ああっ!また逃げられたっ!!」
「な、何ですか!?」
「ちょっと、須和さんったらお顔を見せて下さい!」
「ええっ!?」
驚く竜と俺を無視して、ナースは丸い膨らみと化した須和の布団をひっぺがそうと必死だ。およそ怪我人に対する態度ではないところを見ると、須和の完治は間近なのだろう。
「全然顔を見せてくれないじゃないですか!先週の夜勤の子は見たって!」
「五月蝿ぇ!患者を何だと思ってやがる!」
「退院するまでに顔くらいまともに見せてくれたっていいじゃないですかっ!」
ずるいずるいを連呼するナースに対して、もぞっと須和が顔を見せた。
おおっと思ったその顔には、しっかりと色目の濃いサングラスが。
あれでは端正な須和の目元が判然としない。
それがナースにはご不満だったようだ。
「サングラス外して下さい〜〜〜っ」
「冗談じゃねぇ!てめぇら、これ何とかしろ!!」
ぎゃーぎゃーと言い合い揉み合いへし合いをする2人の様子に、竜と俺は目を合わせた。
様子はどうだった?
そう彰彦に尋ねられたら、答えよう。


「とっても元気そうでした」


須和の退院はもう間も無く。










初出…2008.6.14☆来夢

□ブラウザバックプリーズ□

実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。