No Brand Saurus

意外に柔らかい場所に落下した。
薄く漏れる光の筋を押すと、外に面した出口になっていた。ボロボロに朽ち果てている針金が、どうやら鍵の代わりを勤めていたらしい。
文は慌ててそこから脱出しようとして、ふと自分が落ちた場所を見て眉をしかめた。
「…ナプキン…?」
生理用品の袋が大量に捨てられていたのだ。
後はもう、適当に放り入れたとしか思えない分別されていないゴミが山ほど散乱していた。
「どこ行きやがった!?」
はっと頭上から響く声に気付いて、文は我に返る。
今はそんな事よりも逃げなくては…胸に押し込まれた包みをそのままに、文はその場から走り出した。
遠くに男達の追ってくる声がする気がしたが、今は止まれない、振り返れない。
ひたすらに走って走って、次第に道行く人の視線が気になり出して、文はあっと顔に手を触れた。
「痛…っ」
通りかかったウィンドウに顔を写すと、傷つき腫れた頬が見える。
髪の毛もぼさぼさになって、確かに通りがかりに見たら何者かという感じだろう。誰も彼もがヒソヒソとこちらを見ている様な気がしてきて、文は咄嗟にそこにあった店のドアを開けた。
「いらっしゃい」
「あ、すみません…」
「何か鑑定でも?」
「え?」
薄暗い店内をぐるりと見渡すと、殺風景なショーケースに簡単な値札の付いたブランド品が並んでいた。バッグから靴から宝石からカメラから…そのとりとめのなさに文は気付く。
「質屋さん?」
丸い眼鏡を掛けた頭部の薄い老人は、カウンター越しに文を見上げた。
お金を持ち合わせていない文は、手ぶらの体からはたと胸元の包みを取り出した。
「これを…」
「何ですか?」
「何だろう」
その場を誤魔化す為に取り出した「あの世への餞別」。餞別と言うからには、多少は役に立つ物じゃないかと思ったそれは、透明な石だった。しかも大粒な物が、幾つも。
「ダイヤですか」
「…え…」
「ん〜…本物ですね、これを質入れなさるなら…」
パチパチと店主は古ぼけた電卓を叩き、数字を文に示した。
「何これっ!?」
「ご不満ですか?」
文はブンブンと顔を横に振った。そこに表示されていた金額は、馴染の無い桁数だったのだ。正直、それだけの金額が入れば当面仕事探しをしなくても十二分に生活していける…。まさに今、無一文の文にとっては天の恵みのようなものだったが。
「でも、あの、これは売りません」
「…そうですか」
「私のじゃないっていうか…うわぁ、どうしよう…」
文はその高価な石を手に途方に暮れた。警察に行くしかない。持っていたい物ではないが、売るには抵抗がある。殴られた代金と思えば良いのかもしれないが、文にはどうしてもそれは出来なかった。
「あの、警察ってどう行けば良いですか?」
文は店主に尋ねた。

素早く警察にダイヤを届けて、急いで立科を探して、そしてすぐに帰ろう。人目を憚りつつも、物陰に気を配りながら、文は教えられた道をひた走っていた。
そろそろ落ちてきた日の陰の濃さが、丁度文の痛んだ顔を誤魔化してくれる。
警察署のスローガンが書かれた垂れ幕が見えてきたところで、文は足のテンポを緩めた。そっと不審な人物がいないかを伺いながら近寄るが、そんな自分の方が余程不審人物だろうと思う。とにかく、また捕まったら今度こそどうされるか判らない。
「…立科さんは…」
どこだろう、と呟こうとした文は、またしても背後から口を塞がれてギョッとした。今度は布ではなくて手だ。
「っっ!?」
「文さん!」
小声で名を呼ばれる。
えっと思って振り返ると、そこにいたのはすかさず手を放した…須和だった。
夕方に濃い目のサングラスが重なって、彼がどんな目をしているのかは見えなかったが、文には充分意外な人物の登場だった。
「あなた…っ」
「車停めてあるんで、そちらに」
「私が嫌いなんでしょう?」
「…俺は、女が嫌いなんです」
腕を引っ張ろうとする須和に、文は訝しげな表情を隠さない。隠したくても顔が痛くて、そんな細かい表現までしていられないのだ。それには須和もすぐに気付く。
「根津ですね」
「根津?ああ…確かにネズミ顔だったけど…」
名は体を表わすのだろうか。
それよりも、文には気になる事があった。
「その人が言ってたんだけど、『運命の女』って何のこと?『お婆が予言』したとかどうとかって…どうゆうこと?私があの人達に連れてかれた事は、関係してるんでしょう?」
恐らく、柿本の死も関係しているのだろう。あの男ならいつかどこかで誰かに殺されてもおかしくはない気もするが、それでも今ここでというのは無関係な筈が無い。
あの電話を根津という男がかけてきたのだとしたら、それは、何故。
「とにかく、車に乗って下さい」
「嫌よ」
「文さん」
「私はアイテムとして見られてたの?そのせいであの人も死んだの?」
ギリギリ触れないように、しかし逃さないように体に手を伸ばす須和を睨み、文は尋ねた。その声が思ったよりも大きく響いた気がして、道路の向こうを歩く人影が気になる。
「だとしたらそんなのって…っ」
「黙って」
急に須和の顔が目の前に迫った。
サングラスの奥にある瞳の強さに、文が思わず息を飲んで固まる。そんな彼女の腕を須和が掴んだ。
「ちょ…っ」
抵抗をしたが須和の力は強く、近くに停められていた車に放り込まれた。
「私帰らないわよ!」
「今はそれどころじゃない」
運転席に乗り込んだ須和は短く言うと、舌打ちをしながら車を急発進させた。シートベルトもしていなかった文が助手席に崩れ落ち、須和に対して抗議の声を上げる。
「乱暴者!あなた達って皆そうなのね!何なのよ、いきなり殴ったり引きずられたり…っ!私が何したっていうのよ!!」
「後ろを見て」
大嫌いな女の声を耳で受け止めながら、須和は低い声で答えた。答えになっていないその言葉に、文が素直に背後を伺う。須和が信号無視をして、交差点で車のクラクションや急ブレーキ音が響き渡ったが、文はそれには何も言えなかった。
「…もしかして、追っかけてきてるの…!?」
文の目に映ったのは、交通ルールを無視しまくってこの車を追う数台の車の姿だった。
「顔を隠して」
須和の言わんとする意味を考えて、文はバッと顔を引っ込めた。
まさかこの日本で、街の真ん中で、車から拳銃をぶっ放しては来ないだろうが…
「やりかねませんよ」
須和がチラリとダッシュボードを見たのに気付いて、文は心の底から逃げ出したくなった。恐らくそこには、黒光りする凶器が収まっているのだろう。

顔も痛いし頭も痛い、しかし今は疾走する車の中で味わうジェットコースターの様な恐怖感が勝っていた。
「どこに向かってるの!?」
「さぁ」
逃げるのに必死だと須和が言う。
文は震えそうになる口元を鼓舞するように顔を押さえて、その感じる痛みで意識を保とうとした。
「どうするの!?」
「応援を呼ぶしかないでしょう」
「どうやって!?」
「俺の携帯で…」
また信号無視。今度は歩道を横断中の自転車をひきかけて、文は真剣に顔色を失った。
しかし、ハンドルを握る須和は殺しかけた人の事よりも、携帯の置き場所について困り果てたらしい。
「どこにあるの!?」
「………」
「どこ!?」
須和がハンドルを握っている以上、文がかけるしかない。判り切っているのに言い淀む須和に、文がキレて顔を近づけようとした。
「ケツです!」
「お尻のポケット?」
文は咄嗟に須和の腰元へ手を伸ばしたのだが、その瞬間、須和が奇妙な声をあげてハンドルを捻ってしまう。大きく揺らいだ車内で、文の頭が須和の肩にぶつかった。
「何よ!?」
「触らないで下さい!」
「こ、こんな時に…っ!」
この期に及んで女嫌いを発揮するのかと、文が呆れ返った。
すると、須和が正面を睨んだまま叫んだのである。
「俺は3人の婆に育てられたんだ!」
「…は?」
「3人が3人ともお袋に嫉妬心を抱いて、若作り色仕掛けで俺や親父に迫ったおかげで、お袋は出てっちまうし、親父もいなくなった!それから残された俺は、3人の婆に育てられる羽目になって……っ!!」
文の目が丸くなった。
いきなり女嫌いになった理由の告白をされたのである。驚かない方がどうかしているだろう。だが、文にとっては、今はそれよりも、である。
「私はあなたに迫らないわ。だから、ポケット触るわよ」
「…っ」
須和が少し息を飲んだのを見ながら、文は彼のポケットを探って携帯電話を取り出した。無事手に納まったそれを操りながら、文は須和の横顔を盗み見る。
いい男だ。
それが災いして、お婆さん達によって芽生えた女嫌いを加速させたのだろう。
「皆も知ってるの?」
「…初めて言いましたよっ」
「何で」
「…誤解を解いて下さい」
「誤解?」
「遊莉…さんが、嘘っぱちを言ってまわってるから!」
ああ、きっと遊莉の事だから…と彼女の笑い声を思い出しながら文は頷くと、少し考えてから呟いた。
「でも、ナルシストよね」
「え?」
高刀という文字を探して携帯を耳に当てた文に、須和が間抜けな声を出した。それを無視して、文は聞こえてきたコール音と、それがプッと切り替わるのを感じたのだが。
聞こえてきたのは、呼び出し音が途切れる音ではなく。
「危ないっ!!」
須和の声と、目の前に迫った黒いトラックに叫ぶ、自分の悲鳴だった。










初出…2008.4.10☆来夢

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