No Brand Saurus

最悪だ、最悪だ、最悪だ!
文(あや)は大股で、わざとドスドスと地面を叩くように歩いた。
秋雨の続く肌寒い気温も、今の文のかっかとした気分を冷ますには不十分だ。
何だって私がこんな目に遭わなければならないのか!
ブンブンと腕を振り回したくもなるが、ふーっと吐いた吐息に通り掛かりの主婦がビクッと方を震わせたのに気付いて、彼女はそれを止めた。奇異な色で遠ざかっていく視線が痛い。
腕時計を見ると、夕方6時。
夏より日が落ちる時間は早まったとはいえ、朝から続く曇天はあまりそれを意識させなかった。
出来ればもう少し暗くなって欲しい。
そうすれば…と、文は自分の姿を見下ろして、溜め息をついた。
そうすれば、この婦警のコスプレ姿も目立たずに済むだろうに。


文の勤める会社は、都内にある小さなイベント企画会社だ。
企画だなんてご大層なものではなく、様々なイベントプロデュースの下請けの下請け…体のいい雑用係である。フリーターをして日々を何となく過ごしていた時、大学の先輩から誘われて入社した経緯がある。その先輩は文を生け贄にするように、彼女の入社後3日目には姿を消していた。
当初は首を傾げたその行為も、今となってはよく理解が出来る。
理解が出来るから、許せなくもある。
「柿本のジジイ…っ!」
柿本は上司であり会社の代表であったが、この男…酷いセクハラ男だったのだ。
「何がコスプレパーティの受付役よ!」
忌忌しい柿本の顔を思い出すと、胸を掻きむしりたい欲求に狩られる。
東京から2時間以上かけてやってきた街で、あの男は「打ち合わせ」と称して文を安ホテルのベッドに押し倒してくれたのである。


今までもちょくちょくとセクハラをされてきたが、ある程度は我慢してきた。
大体にして自分には我慢というものが少し足りない、そう自覚していた。だから、例えばお尻をねっとり撫で上げられるとか、ぶつかったフリをして胸をを押されるとか、週刊誌の記事を朗読する真似をしながら卑猥な事を言われても…我慢してきた。代わりに奴専用の湯飲みは5つ割ったが。
忍耐力強化だ…と開き直れば、我慢できない事もなかった。
正直なところ親や友人には相談しにくい気もしたし、同僚の立科透の存在もある。
「あんまり酷いようなら、俺から言うよ?」
同じ様に耳元で囁かれるにしても、立科と柿本では雲泥の差だ。
彼は涼しげな目元を少ししかめながら、心配そうにそう何度か言ってくれた。ただ、言えば文の職場での立場は確実に危うくなるから、強引には言い出せなかったのだろう。
文もまた、声を掛けてくれる彼に相談すれば良かったのに、つい「大丈夫です」と返してしまう。本当は大丈夫じゃないのに「大丈夫」が反射的に咽を飛び出す自分に、文は何度トイレで溜め息をついたか知れない。
思えば、今回の出張についても、彼は酷く心配をしてくれていた。
その予感は予想・予報・予告と言っても差し支えは無かったのだろう、物の見事に柿本は耐える文に高を括って襲いかかってきたわけだ。
「指輪をもっとしておくんだった!ヒールもピンヒールの靴にしておけば…っ」
ブツブツと呟きながら凄まじい勢いで歩く婦警。
文は手に残る柿本を殴った感覚と、パンプスで蹴り上げた柿本の股間の感触を思い出して、ぐっと唇を噛んだ。
どうして今まで耐えに耐えてきた私が、こんな不快な思いをしなくてはならないのか!
しかも、出張先で首を切られた上に、着替える間も無くホテルを飛び出す羽目になるなんて!
「俺の言う事が聞けないなら、クビだ!」と叫んだ柿本の声が脳裏を過る。
「やっぱりもう一発殴っておくんだった!!」
くそ〜〜〜っとその場で飛び跳ねる様に地団駄を踏む姿を、自転車に乗った中年男性が口をポカンと開けて眺めて去っていった。
一瞬、その視線に動きを止める。
しかし、よくよく考えてみたら誰も知り合いのいない街である。別に誰に見られようと、何を思われようと、気にする必要は無いなと思えた。さっさと駅のトイレでも着替えをしよう。公園のトイレだって良い。
着替えて東京に戻って、就職活動だ!
心で宣言をした文は、自分の思考に夢中で行く手の景色に全く注意を払っていなかった。

「おい…!」
ガツガツと突き進む婦警姿の文に、ごつい外車の脇に立っていたスーツの男が小さく息を飲んだ。
どうしてここに婦警がいるんだ!?という眼差しは、しかし文には届かない。
その時、文に届いたのは。
「高刀ーっ!!」
「え?」
「アキさん!」
背後から突然沸き起こった男の怒声に、文が驚いて振り返ると。
ガタガタと震える両手で黒光りする拳銃を手にした若い男が、逆に安定感を欠くほどに足を開いて構えているではないか。
何事か?と思った視界の片隅で、外車の脇にいた男が別の男を庇う姿が見えた。
若い男が拳銃で、誰かを撃とうとしている。
まるで漫画の中の出来事の様な、一瞬。
何故だろう。
文の足は、逃げるのではなくて動きを止めてしまった。…動けなかったのだ。
そんな彼女の登場に、拳銃を手にした男が泣きそうな顔をする。
嫌だ、泣きたい気分なのはこっちの方なのにー。


パンとタイヤが弾ける様な、それより甲高い音が空気を裂いた。
次の瞬間。
文は脇腹に熱を感じながら、意識を失っていた。

荒神(あらがみ)の元に出向いていた高刀彰彦は、その広大な屋敷の砂利を踏みしめながら軽く吐息を付いた。
一見すると駄菓子屋のオヤジの様な荒神が、実は裏社会の一大組織である荒神(こうじん)会組長である事は、現代のお伽話に思えて仕方ない。だからと言って甘く見れば、閻魔大王もビックリするような手酷い仕打ちが待っている。その跡目の有力候補とされている彰彦であっても、それは常に心に備えている事実だ。
「随分とやる気の薄い顔ですね」
「…仕事の話じゃなかったからな」
荒神と彰彦の会談の内容に、表で待っていた佐古が興味深そうに首を傾げた。
もう10年以上の付き合いになるこの細目の男は、口数こそ少ないものの、仕草で返答をしている時がある。
「早く結婚しろとさ」
「ああ」
またですか、と佐古が頷きながら、彰彦を駐車場から移動させた車に誘う。
荒神がその話題を持ち出すのは、もう何度目かの事になる。跡目を継いでからでは遅いのだから…と思っているのだろうか。そもそも彰彦を跡目にすると、彼が明言した事は一度としてない。それは他の候補者達とて同じ事なのだが。
「あなたが結婚したら、案外動き出すのかもしれませんね」
今は元気な荒神の元で、平穏な時間を過ごす組織。
その穏やかな波が跡目争いで大しけになる事は必至だろう。まさかその引き金を引くのが、自分の結婚だなんて面白くも何ともない冗談だ。
「案外、婆さんの予言が当たらない事を気にしてんじゃねぇのか?」
「…運命の女、ですか?」
後部座席に乗り込んだ彰彦を、助手席に座った佐古が振り返った。
佐古の声に、運転席にいた男の目が眼鏡の奥で険しくなる。
「顔が怖いぜ、忠信」
「耳を閉じてます」
バックミラー越しに運転席に言葉を投げた彰彦に、須和忠信はムスッとした調子で答えると車輪を回した。
彼は女嫌いなのだ。

お前さんは運命の女に出会うね。
それも、衝撃的な出会いだ。
女神があんたをてっぺんに導くよ。

一代で荒神会を興し、あれよあれよとそれを全国を網羅する大組織にした荒神宗助。
その生き様は最早伝説的で、どこまでが真実のエピソードなのかは誰にも判らない程に語り継がれていた。
この国の裏側を牛耳っているとまで言われているのだから、尾びれ背びれも付くだろう。
今でこそ経済をメインに世界を牛耳る彼も、昔はやはり切った張ったが主流だった頃もある。そんな時代をも、荒神は奇跡という様な選択眼を持って切り抜けてきたのだ。
恐るべし知謀の持ち主。
彰彦はたった今面会してきた彼を思い出してから、1人の老婆を続いて思い起こした。
通称・御婆。
荒神の元にいる占い師である。
嘘か真か、荒神の成功の影には彼女の助言があった…という事実を、彰彦は数年前に知った。自らの高刀組を興す事を許され、めきめきと荒神の元で頭角を現していた、ちょうどその頃に。
-何の冗談だ?
-冗談と思うなら、あの男もここまでになってないだろうよ
今日の様に荒神に呼び出された彰彦に、突然現れた御婆が言った。


運命の女。


一見すると和服と縁側の似合う、どこぞの老婆にしか見えないのだが。彼女の目には不思議な力と、そしてニヤッと笑った口元には背筋を這い上がる不気味さがあった。
話には聞いていても、実際にその姿を目にする事は稀な存在。それが御婆だ。
恐らく彰彦を目の敵にしている根津あたりは、未だに後ろ姿すらも拝んではいないのではないだろうか。
彰彦にしたところで、御婆に会ったのはその一度きりなのだから。
「女なんていなくたって、アキさんなら頂点に上り詰めますよ」
運命の女も、御婆も、須和にとっては同じ「女」にほかならない。
神経質な指先で眼鏡を押し上げる彼に、彰彦は内心で苦笑しながら車を停めろと言った。
「煙草なら買い置きしてありますよ」
「違うのにする」
「またですか」
煙草の自販機に向かう彼に、佐古がやれやれと肩を竦めた。彰彦が煙草の銘柄を変えるのは何度目か。
気分で選ぶという彼に、佐古と須和も車から降りて周囲をさり気なく見渡した。
「神経質じゃねぇか?」
不意の襲撃を気にしているのだろうが、現在地は既に高刀組の勢力内であり、それは則ち荒神会内という事である。
ここで何かをしたら、どうなるかは誰にでも判る。
「でも、ネズミならやりかねない」
根津の事を、彼らはネズミと呼ぶ。
黒ずんだ出っ歯が特徴だからだ。
思い出すと笑える…と、外国製の銘柄に決めた彰彦がボタンに指を伸ばした時だった。

バタバタという騒々しい気配に、佐古と須和がハッと身構える。
そこに現れたのは、2つの正体。
「高刀ーっ!!」
拳銃を無様な姿勢で手にした男と。
「え?」
違和感の溢れる制服姿の女。
「アキさん!」
佐古の声にすかさず身を低くした彰彦の耳に、パン!という想像した通りの音が響いた。
それに続いたのは、逃げ出したらしい拳銃男を携帯で写真に撮る音と、通り掛かりの女の悲鳴。
何事かと足を止める通行人や何事かと建物から顔を覗かせる人々の物音に続いて、彰彦に届いたのは。
佐古の困惑した声だった。
「何だ…こいつは」




そこに倒れていたのは、偽物の婦警服に身を包んだ…1人の女だった。










初出…2007.9.28☆来夢

□ブラウザバックプリーズ□

実在の人物・団体・地域などに一切関係ありません。フィクションの塊です。著作者は来夢です。無断転載禁止です。