「…っひ、ヒタ…」
「…すまない…すまない…クコ…俺は…」
ぐっとクコの首に指をめり込ませるヒタキ。
何故かその声が苦しげなのを、息が遮られていく痛みの中でクコは気付いていた。
体の動きとは裏腹に、いつもツグミを優しく見つめる彼の瞳が苦痛に歪んでいる。
それで、クコには判った。
『…あなたは、やっぱりあなただよ』
大丈夫だった、ヒタキは何も変わってはいなかった。
何を苦しんでいるのかは判らない。何で殺そうとするのかは知らない。
でも、これは間違いなくヒタキだ。
ならば、仕方ない。
『でも、できる事ならば…』
あなたが、私を殺すことで救われるのなら、後悔しないように。
ヒバリが、ヒタキを責めませんように。
「……っ」
クコの細い首の骨が、奇妙な音をあげようとした。
その瞬間。
「クコ!!!」
「クコ…っ」
近づいてきた車の轟音と、そこから響く男の絶叫。
ヒタキはそのぎりぎりの瞬間、自分の意思で、指の力を解いていた。
ー何で!?
「…俺は…っ」
ヒタキの足下に崩れ落ちるクコの身体。
ー何で手を放した!? 私の意思に逆らったというの!?
頭の中で響く声の様なものに、ヒタキはゆるゆると頭を横に振った。
足下にあるクコを助け起こしたいが、それが出来ない。身体が何となく自分の意思を完全には表現しない感覚に、ヒタキもまたアスファルトに膝を着いていた。
ーどうして!あなたの大切な人が殺されるよ!? 良いの!? 自分だけが悲しい思いをしても良いの!?
「…違う…五月蝿い…違う…」
ー違わない!大切な人を失ったあなたを人は慰めるかも知れないけど、その悲しみは伝わらないのよ!?
「違う、伝わる…違うさ、それに…」
ー下衆な人間達に、あなたの大切なものを踏みにじられても、死をおもちゃの様に扱われても良いの!?
「違うって言ってんだろう!!!」
ヒタキは頭を抱えながら叫んだ。
誰に向かって叫んでいるのかは自分でも判らない。
だが、目の前に倒れているクコを殺すことは出来ない、それはもう取り戻した。
そしてもう一つ、取り戻した自分の真実。
それは。
「俺のツグミは、そう簡単に殺される女じゃないんだよ!!!」
絶叫が、自分の耳を震わせたのが判る。
その声はアスファルトを跳ね返り、夜空に向かって遥か高く反射して空気に拡散した。
まるで、空気中に広がる何者かの意識を振り払う様に。
ー馬鹿な!私をはねのけるなんて…っ!!
吹き飛んだ『意識』は、狙いを定めて飛び込んだヒタキの精神世界を遠く離れた。
世界にさえ影響を及ぼせる力をもつはずなのに…と空間が細かに震えた。
『失敗したわね』
その隙を付いたように響いた声に、『意識』が咄嗟に反応しようとした。
だが、その段階で『意識』に自由はなかったと言っていい。
行けども行けども白い壁にぶつかるような、そんな空間に閉じこめられた感覚に襲われていたのである。
ーな、何だこれは…私を空間から隔離したのか!?
『融合というより、寄生だったようね』
ーお前…
『どうやって捕まえるかと、聞いたわね?』
そこは、ツグミの空間だった。
『あなたがヒタキの中に入った瞬間に判ったわ、あなたという『意識』が肉体を持たないのだとするならば、人の精神世界の広がる空間がその代わりだったのだと』
人が生きる場所、人の意識が無数に無意識にやり取りを繰り広げる空間。
ー………意識を殺す事は出来ないよ?
『ええ。…あなたが大気という広大な海を離れ、ヒタキという一つの個という肉体に移ったのを見て思いついたの』
ー……まさか。
『あなたを、私の中で飼う』
意識は知った。
この白い壁に囲まれた空間が、既に彼女の中にある宇宙の監獄であるという事を。
ー飼うだと!はっ!私がお前を内側から侵食してやろうじゃないか!その時、私はお前という肉体を手にする事になるな!
『やってみるが良いわ。でもね、私は強いわよ?』
ツグミの声は、余裕だった。
その声の響きに、『意識』は自分が急速に収縮していくのを感じた。
肉体が朽ちるように、存在が失われていく。
それは、彼女に吸収されていく瞬間。
無に向かう白さを感じて、『意識』は叫んだ。
ーお前に、何が判るーっ!!!
ツグミは、ヒタキの中に飛び込んだ『意識』に気付いて、それを取り込む事を思いついた。単体に飛び込む事が出来るという事は、単体に閉じこめる事もまた可能ではないかと。
まさかヒタキ自身がそれをはじき飛ばすとまでは思っていなかったが。
自分の意識下に四角いスペースを用意して、そこに囲い込むイメージを強く作り上げ、その監獄に意識を捉えるという試みは成功した。
とにかく、この存在をそのまま空には帰せないと、野放しには出来ないと思い。
咄嗟に考えついたのは、自分の身を差し出す事だったのだ。
『…これは…』
ツグミは取り込んだ『意識』が自分自身に取り込まれるのを感じていた。
『意識』という個は消えてなくなり、まるで身体の細胞の一つの様にツグミの意識の一つになっていく。
その過程で、ツグミは見た。
この『意識』と作り上げた切掛になったのであろう、出来事と感情を。
それは、白い夏に起きた小さな悲劇だった。
倒れたクコと膝を着いたヒタキの元へ、間近で急ブレーキを踏んで止まったバン。
停まると同時に飛び降りてきたヒバリは、崩れ落ちるように倒れているクコをすぐさま抱え上げた。
意識を失っているクコの白い首には、くっきりとヒタキに締められた際の指の跡が残っている。
それを見つめるヒバリを見上げながら、ヒタキは覚悟をした。
彼はクコを傷つけた人間を許さない。
自分が、ツグミを傷つけた人間を許さないように。
だから、怒りは甘んじて受けよう。と。
だが。
「ったく…しっかりしろよ」
片手でクコをしっかり抱きながら、もう片方の手でヒタキの腕を引っぱり上げるヒバリ。
「…あ?」
「あ?じゃねぇよ、俺にはお前を担ぐなんて無理だからな。自力で立て」
さも面倒臭そうに言いながら、ヒバリは大声でクロウタの名を呼んだ。
その声がすると同時に、腰をさすっているカグーを助けながら飛び出してくるクロウタ。どうやら今の急停車でカグーがバンの中を転げたようだ。
「…お前…」
呆然とするヒタキに、ヒバリは小声で早口に呟いた。
「こいつが許してたからな、俺もそうする」
「…………そう…か…」
どうしてここにいなかったのにクコの心の中が判ったのだろう…と思った疑問を、ヒタキはすぐに放り投げた。
判るのだろう、ヒバリには。
そう納得する事で、ヒタキは一人頷いた。
最後にバンから降り立ったオジロが、2人の様子を見ながらホッとしたような顔をして。
それからそっと、バンの中で未だ眠っているツグミを振り返った。
仲の良い幼なじみだった。
毎日一緒に学校へ行き、毎日一緒に遊び、毎日「また明日」と手を振って別れた。
その日も同じ、「また明日」と手を振って別れた。
異変が起きたのは翌日だった。
何かが起きた。
子供心にそれは判った。
玄関からいつもの顔が出てこない。家の中で不穏気な動きをする大人たち。家から出してくれない。学校へまだ行かせてくれない。窓からそっと覗く、幼なじみの家。大人が沢山いた。黄色いテープが張られていた。まだ向こう側から彼は顔を見せない。救急車が来た。脱脂綿が運び込まれていった。人が大勢出入りしているのに、彼はまだ出てこない。やっと学校へ行っていいと言われたが、彼は来ない。彼はいない。彼がいない。何も教えて貰えない。何が起きているのか判らない。でも、何となく判った。
彼はもう、いない。
学校への道の途中、大人たちが笑顔で近寄ってきた。
何があったの?何を見たの?何をしていた?ねぇ、教えて。おばちゃんだけに教えて。誰にも言わないから。どんなだった。怖かった。気持ち悪かった。ねぇ教えて。教えてよ。どうなったの。
皆、笑っていた。
笑えない。
笑えないまま、夜を迎えた。
ベッドに入ったところで、そっと母親が告げた。
彼は死んだ。
彼は悪くない。何もしてない。でも、死んだ。
その言葉を背中で聞いた。
ベッドに潜り込んで、泣いた。
悲しかった。
学校への道の途中、大人たちが笑顔で近寄ってきた。
何があったの?何を見たの?何をしていた?ねぇ、教えて。おばちゃんだけに教えて。誰にも言わないから。どんなだった。怖かった。気持ち悪かった。ねぇ教えて。教えてよ。どうなったの。
皆、笑っていた。
教えてよ。ねぇ。何で教えてくれないの。ずるいじゃない。自分ばっかりずるいじゃない。教えて教えて教えて教えて。
笑って、怒って。
追いつめられて。
追い込まれて。
悲しむ暇も与えられずに、追いかけられて。
気付いた時には、意識が思考の海を彷徨っていた。
『…あなた…まだ、子供だったのね…』
ツグミの中に流れ込んできたのは、幼い子供のイメージだった。
それは余りに幼すぎて、打ち寄せる悲劇の波と、大人たちの寄越す世間に汚れた波には耐えきれない存在だったのだろう。生まれ持った感応能力を逃げ場として使う内に、戻るべき道を、戻るべき肉体を失ってしまったのかもしれない。怒りが純粋な分、海には溶け込みやすかったのだろう。
しかし、その純粋な怒りは、世界に流れる様々な感情や思考にまみれて…
ツグミは目を開いた。
白い世界を抜けてきた気分で見上げたものは、灰色の面白くもないバンの天井だった。
だが、その無機質で無愛想なものに、ホッと安堵する。
ふっと気付くと、開いた後部ドアからオジロが静かな視線を寄越していた。
そんな彼に肩をすくめながら、ゆっくりとバンを降りると。
「…片づいたのか」
「ええ。もう、大丈夫」
オジロは彼女の返答に、小さく頷いた。
すっと彼が視線を向けた先には、大騒ぎをしている局の面々が。
腰を打ったカグーにヒタキをおぶわせようと、カケスとクロウタがふざけている。力が抜けて身体が言うことを聞かないのだと、ヒタキは喚きながらカグーを押し潰していた。傍らでは、ヒバリがクコを抱きかかえて放そうとしないでいると、意識を取り戻してきたクコが慌てて喚きだす始末だ。
いつもの面々のいつもの様子に。
ツグミは正直安堵した。
「一体何だったんじゃ? 街はこれからが大変じゃぞ。今夜一晩だけで何件の傷害や殺人未遂、殺人が起きたか知れん。天災なみの大騒ぎになっとる」
不機嫌そうに言うが、顔はどこか笑っているオジロに。
ツグミは空を見上げて伸びをした。
「報告書になんて書こうかなぁ」
「ほう、報告書を書く気はあるらしいな」
ニヤッと意地悪く笑うオジロを無視して、ツグミは倒れているヒタキに向かって歩き出した。
「原因は…やっぱりウィルスだったんですよ」
「何?」
夜風でなびく髪を手で払いながら、ツグミは笑った。
「人間という名のウィルス」
ー彼女はまだ。
ー気付いていない。
ーこの波が、どんな影響を及ぼしたのかを。
ー確かに人を思う気持ちを上書きはされたけれども。
ー確かにそれ以前の感情も、下書きされているから。
ー広がる波はまだ、その姿を現してはいない。
ー人の心は波の様に、次第に流れを増していく。
ー広げていく。
ー今はまだ小さなさざ波だけど。
ーいつしかその下書きの波と。
ー上書きの波が。
ー個の中でせめぎあう日がくる。
ー自分の中の能力を知らずに過ごす人々が、嫌でもその事に気付く。
ーその時。
ー真の選択が迫られるのだ。
ー人を思い、人を傷つけるか。
ー人を思い、人に傷つけられるか。
ーいつまでも、画面を覗く側でいられると思っているのか。
ツグミはちらりと、胸に手を当てた。
そして空を見上げる。
未だ黒い幕に覆われたその空を。
まだ、夜は明けていない。
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